いつもスウィング気分で
Ordinary life
 奇抜で過激な出会いの日から2ヶ月半、俺たち2人は同居を始めた。簡単で急激な同居。一緒に暮らしているからと言って、熱烈に愛し合っているわけではないし、そうでなければならないという義務はない。2人が男と女であるというだけで、生活のためのルールは同性同士のそれと何の違いも無い。肉体関係は有るが、夫婦や恋人たちのものとはやはり違う。お互いを求めはする。少なくとも俺は彼女が欲しい。
「ここで食べる食費は折半ということで良いかしら」
 2人の間ではっきりとさせておかなければならない生活のルールの中に、一番細かくて出来れば触れずに通り過ぎたいことがある。金のことだ。だが彼女は部屋代に始まって新聞代に至るまで、実にはっきりルールづけした。男が働いて稼いだ金で女が家計を遣り繰りするのとは明らかに違うのだからと。
「部屋代と新聞代は毎月一定だから、前以ってお支払いするとして、光熱費は口座引き落としの領収証が届いた時点で半額お支払いします。食費は月末に使った分を合計して半分にすれば良いでしょう? 日用品なんかも忘れずにレシート貰ってね」
 きっと今までもそうして来たんだろうな。彼女みたいなのを奥さんにしたら、しっかり者で遣り繰り上手で良いかもしれないが、浮気のためのへそくりも出来ないだろうな。或いは、
「あら、外食したり呑んだりするのはあなたのお財布なんだから、どうぞご勝手に」
 と言うだろうか。
 俺はレシートや領収証を保管していたことが無い。これからは貰わないといけないな。忘れることの方が多そうだ。
 金の事はひとまずそれで良しとして、今迄の俺の生活がどれだけ彼女に影響を受け変わってしまうかが大きな懸念材料だ。彼女のペースに巻き込まれるのは不本意だが、予想に難くない。寝ている間に朝食がセットされ、お早うのキスでお目覚めというのは望んではいけない。
「お目覚めの音楽もトーストもコーヒーも今迄通りで良いと思う。でも私は違う曲で目覚めたい時もあるし、トーストとコーヒーだ けじゃなくハムエッグとヨーグルトを加えたい時もあるわ」
「ご相伴したいね」
「では、コーヒーとトースト以外は私が担当ね」
「大賛成」
 マンデリンを2杯分、6枚切を2枚、俺は毎晩仕込む係だ。
「明日の朝はボブジェームスにしたいな」
「いいや、明日は日曜日だから目覚ましはいらないんだ」
「目が覚めた時に起きるってわけね?」
「そういうこと」
「掃除や洗濯、目が覚めたら適当に始めちゃって良いかしら」
「任せる」
 その時ベッドルームで彼女の電話がキリキリとなった。電話のベルの2回分、俺の顔を凝視すると、彼女は一大決心したように「えい」とでも声に出しそうな勢いでソファから立ち上がった。5回目が鳴り終わった時彼女は受話器を取った。
「はい、森田です」
 会社の電話を受ける時とまるで同じ調子だ。少ししょげたような、しかし、きっぱりとした意志を持った口調。相手の声は当然のことだが聞こえない。
「・・・クロゼットルームに居たの・・・友達のところ・・・そうね、悪かったわ・・・今そんなこと言ってもしょうがないでしょ。傍に人が居るんじゃないの?・・・わかってる・・・うん、残業はしない・・・じゃ」
 いつものように短い会話だ。受話器を置いてゆっくりこっちに戻って来た。
「何故すぐ電話に出なかった、ですって。5回しか鳴らしてないわよね、全く」
「青森から?」
「うん。私が家に帰ってるか確かめるためだわね。彼は代々木上原にかけてると思ってる」
「予定通り帰って来るって?」
「そうみたい。火曜日に青山まで迎えに来るって」
「その時にはもう君が上原のマンションに居ないことがわかってしまうんだろ?」
「そうね」
「大丈夫か」
「多分」
 俺が尚も何か言おうとするのを遮るように、彼女は買い物に行きましょうと言った。
「車で紀ノ国屋に連れてって」
 夕方は道が混んでいるが急ぐわけではないし、駐車場がいっぱいでも待てないわけじゃない。のんびりと少しリッチになった気分でショッピングとシャレよう。
 紀ノ国屋の一番大きな紙袋を3つ抱えてエスカレーターを下りた。タワーパーキングから車を出すと、ポーターがトランクに袋を積み込んでくれた。少し気取ってどうもありがとうと言うと、彼女は優雅に車に乗り込んだ。俺も気取ってポーターに向かって手を上げ、ゆっくり青山通りに出た。
「リッチな気分」
 1個だけ取り出したミルキーウェイをかじりながら彼女は言った。
 
 冷蔵庫がいっぱいになった。
「収納棚が必要ね」
 ワゴンに入り切らない物は紙袋に入れたままにして、明日彼女のワードローブをしまい込むチェストとキッチンの収納家具を買いに行くことにしよう。
 こんなに盛大に食糧を買い込んだのに、彼女は外で食べたいと言った。俺も同感だ。彼女が作りたくないなら俺だって同じさ。

 次の日ぐずぐずと雨の降る中車で渋谷へ出た。ハンズの駐車場に車を入れ、ハンズと西武を見、丸井で決め、現金で払い、車を廻すからと搬入口まで下ろしてもらった。
「現金客にとって丸井は高いわね」
 組み立て式の家具なので梱包された状態で後部座席に納まった。部屋に着くとプラスのドライバーを片手に彼女は自分のチェストを、俺はキッチン用のストッカーを組み立てた。30分ほどでチェストを組み立て終えた彼女は、段ボール箱に詰まった自分の服を畳み直しながらチェストに納めた。俺は紙袋の食糧をストッカーに適当に詰め込んだ。彼女が後でゆっくり整理整頓するだろう。
「私の荷物のせいでベッドルームが狭くなっちゃった」
「そんなこと、ベッドが狭くなったことに比べたら大したことじゃないさ」
 彼女は笑った。
「私、ベッドが狭いのは慣れてるわ」
 と言った。俺だってこのベッドが2人で寝るには狭いことぐらいとうの昔に分かっていたさ。
 部屋はきっちりと片付いて、俺たち2人は完全にこの部屋での共同生活のスタートラインに立った。いつまで続くかわからない。彼女は俺の知らない間に新しい部屋を探すかもしれない。代々木上原に帰ってしまうかもしれない。新しい男の部屋へ去ってしまうかもしれない。俺だって彼女に出て行けと言わないとは限らない。何もかもが俺たち2人の間で不安定だ。そして2人ともそのままで良いと思っている。こんな中途半端な関係でいることによって起こる不安感を2人で共有することを楽しんでいる。
 夜になるまでには俺も彼女もそれぞれの生活のペースを取り戻しつつあった。俺は毎日曜日そうするように洗濯をし、彼女はソファーでペイパーバックを読んだ。BGMには彼女が俺のライブラリーからピックアップしたハービーのピアノソロが流れている。今のところ彼女の存在が俺の流れを乱してはいない。それが意識的なものなのか無意識なのかは分からない。以前暮らしていた男のために同じようにしていたのだろう。「彼の思考の邪魔をしなければ存在しても良かった」と言っていたのを思い出した。心がチクリとした。
「目覚ましの音楽のリクエストは?」
「今のままで良いわ」
 ペイパーバックから目を離さずに彼女は言った。俺のワイシャツを着ている。脚を組んでいる。乱れた髪がゾクゾクするほど艶っぽい。
「朝食は?」
「As usual」
「OK」
 いつもするように朝食のタイマーをしかけ、俺はシャワーを浴びるためにバスルームへ向かった。すると彼女はペイパーバックをテーブルの上に置き、俺に向かって歩いて来た。歩きながらシャツのボタンを外し、俺に追い付くと、
「私も一緒に浴びる」
 と言って背中に抱き付いた。彼女がそんな風にすると俺はノーとは言えない。計算されたような色香に負けてしまう。これは彼女の才能だ。
 彼女は俺の首に腕を回し背伸びをした。俺は体を屈めて彼女にキスをした。髪に、顔に、肩に、シャワーの湯が流れ、2人は体を寄せ合ったまま暫くキスを楽しんでいた。
「あなたが好きよ、今は」
 少し唇を離して彼女は言った。そうしてまた元に戻す。彼女の腰に回した俺の腕は少しずつずれて、彼女の尻や背中を撫でている。その手の一方を彼女は取って、今迄何人の男が迷い込んで行ったかしれない深い森の中へ導いた。彼女の中に入ると、悔しいが堰き止めようの無い絶頂感が急激に俺を襲う。もう抜け出せない。彼女を手放したくない。ああ、こうやって何人の男を惑わせたんだ、君は。
 次の朝いつも通り目を覚ますと、隣りに彼女は居なかった。
「アキ」
 と呼ぶと、なあにとキッチンから声がした。キッチンとベッドルームを仕切る引き戸が開いて彼女が顔を覗かせた。
「何してんの?」
「朝食の用意」
「それは済まないね」
「約束だもの」
 ここまで来てキスしてくれたら最高なんだけどな。
 トースト、コーヒー、茹で卵、キャベツとツナのサラダ、何ともヘルシーな朝食だ。機内食用のトレイに用意されたその朝食を2人してベッドに並んで座って食べた。ハッピーだな。
「一緒に電車で行けないわね」
 なかなか冷めないコーヒーをアチアチ言いながら1口飲み彼女は言う。俺のワイシャツの袖が長いので幾重にも折り返している。俺はカリカリに焼いたトーストで口の中が少し痛くて辟易しながら食べている。
「若杉が詮索するだろうな」
 彼女はふふふと笑った。
「私、自転車で行くわ」
「え?」
「駐車場に自転車が置いてあるでしょう?」
「あるけど、俺のはミニサイクルじゃないよ」
 ドロップハンドルのスポーツ車だ。ブレーキレバーはギドネットだから良いとしても、サドルは細いしペダルにはトウクリップが付いている。何より彼女には大き過ぎる。ピラーを下げても足が地面に届くがどうか。
「危ないよ」
「平気よ。代々木上原に居た時だって自転車で青山まで行ったことあるのよ」
「それはミニサイクルだろ?」
「お願い。一度で良いから乗ってみたいの。無理だと分かったらもう乗らないから」
 甘えん坊の猫のように顎を俺の肩に乗せる。裸の背中に彼女の髪がくすぐったい。こんな風にされると弱い。すぐそこにある彼女の唇にキスをする。仕方ないなあと言いながら、食後、地下の駐車場へ行った。車のトランクから工具箱を取り出し、5㎜の六角レンチを探し出す。スタンドが無いので壁に立て掛けてある自転車からカバーを外し、トランクに入れた。暫く手入れをしていないので、白いフレームがくすんでいる。サドルをいっぱいまで下げ、ブレーキの利きとギアチェンジをチェックした。ペダルのトウクリップを外そうか外すまいか迷った末、付いていた方が安全だという結論に至った。
 部屋に戻ると彼女は着替えを済ませていた。ライトベージュのチノパンツに黒いタンクトップ、腰にパイルのパーカーを結んでいる。
「サコッシュ貸そうか?」
「なあにそれ?」
「ポシェットの大きい奴」
「んー、要らないわ。ウエストバッグがあるから」
 食器を洗い終えると、髪をバンダナで無造作に束ね、彼女はスニーカーを箱から出した。
「テニスシューズ?」
「そう」
「もったいないよ」
「何故?」
「ペダルのトウクリップで靴先が傷むと思う」
「構わないわ。そんなに大事にしてないし、テニス用なら靴底に厚みがあって足が地面に着きやすいでしょう?」
 なるほど、納得。
「俺は車で行くよ」
「どうして?」
「行きだけで君がバテてしまった場合、帰りに君と自転車を積んで帰らなきゃいけない」
「ひどいわ」
 絶対大丈夫よ、私、体力あるんだからと豪語して、彼女は俺の背中をぶった。
 ダイヤモンドに跨ってどうにかペダルは踏めるが体を傾けないと足が地面に着かない。
「信号でちゃんと止まれよ」
「もちろんよ。幼稚園児じゃあるまいし」
「歩道の縁石に足を掛けると良い」
「Yes, sir」
 ウエストバッグを腰に回して彼女は出発した。ペダルを踏みながら体が左右に揺れないのが救いだ。結構脚が長いんだな。
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