いつもスウィング気分で
Scar
 カラリと晴れ上がった月曜日の朝、彼女は自転車で通勤した。彼女は会社から支給される半年分の定期を払い戻し、俺も払い戻してガソリン代と駐車場代に充てた。
「何だか顔色が良くないな。無理しない方が良いんじゃないか?」
 朝食のパンを1枚丸ごと食べずに残し、何だかだるいわと言いながらも折角のお天気がもったいないと張り切って自転車で出て行った彼女が気になっていた俺は、会社に着いてから何気なく話しかけた。
「大丈夫です。昨日までの雨でバイオリズムが狂っちゃったんです、きっと」
 そうやって笑顔で答えはしたが昼食も摂らずに休憩室で横になっていた。比較的彼女と仲の良いセクションツーの女子に様子を見て来てくれと頼んだ。5分ほどして休憩室から出て来ると、
「顔色も良くないし、熱があるようなので早退させた方が良いと思います。森田さんは大丈夫だと言ってますけど・・・」
「そうか。じゃあ早退するように言って来てくれないか」
「はい」
 帰りの支度をする彼女は青白い顔をし、苦しそうだ。何だろう、どうしたんだろう、何か変な物でも食べたろうか。それなら俺も同じ物を食べているわけだから、同じ症状になるはずだ。風邪かな。
 自転車お願いとジェスチャーで示し、お先に失礼しますと力の無い声で皆に言い、お大事にと言う声を背にドアの向こうに消えた。
「森田さん、具合が悪いなんて珍しいですね」
 キャビネットの向こうから田中が現れそう言うと、俺の顔を見た。
「妊娠してるんじゃないかな」
「まさか」
「だって彼女、同棲してるわけでしょ? 可能性はありますよ」
「ふむ。直接尋ねるわけにはいかないな」
「妊娠」の言葉を聞いた瞬間京子の顔が頭に浮かんだ。そして同時に秋子と俺が暮らし始めてまだ1ヶ月だという事実、山崎秀也の子どもだという確信、俺自身の免罪。だがそれ以前の問題として彼女が妊娠しているかどうかはわからないのだ。
「事実無根なことは口にしない方が良いぞ」
「わかってます。俺だって森田さんのファンですから」
 そう言って笑うと田中はキャビネットの向こうの自分の席へ戻った。
 秋子のことが気になりはしたが、プログラムテストがアブノーマルエンドしロジックにバグが発見されたため残業を余儀なくされ、部屋に着いたのは10時を回っていた。
「具合はどうだ?」
 ぐったりとベッドに横たわる秋子は何だか本当の病人の様だ。顔は蒼白なのに熱っぽいのかうっすら汗をかいている。
「寒気は?」
 否定するように首を振ると、
「病院に行って来たの」
 と言った。
 なんだそうかそれなら良いとほっとした。立ち上がりかけた時、彼女が俺の腕を掴んだ。
「聞いて」
 もう一度ベッドに腰を下ろした。神妙な彼女の表情と10年前の京子の顔がダブった。そして昼間会社で田中が言った「妊娠」という言葉・・・。
「どうした?」
「私、妊娠してるの」
 表情だけで驚いては見せたが、心の中では、やっぱりと呟いた。何も言わずに彼女の目をみつめ、決して逸らさず彼女の次の言葉を待った。例え慈愛のこもった言葉を言ったとしても、その言葉に彼女が望まないニュアンスが含まれることは禁じ得ない。俺にそんなつもりはなくてもだ。嘗てそんな風にして別れた女が居たから、俺には分かる。
 「堕ろさなくちゃ」
 そう言って彼女はベッドサイドチェストの上に置いた8つ切りの紙を取ると、俺に差し出した。受け取って見ると、そこには優生保護法によって中絶手術が出来るということが3行に亘って書かれ、署名欄が2つあった。上には彼女自身の名前と代々木上原の住所が既に書いてある。下は空欄のまま。
「俺の名前?」
 彼女は顔を背けた。俺の言葉にきっと、俺は知らないぞ、俺の子どもじゃないだろ、という響きを聞いたのかもしれない。尤も俺は自分の名前を書いても構わないと思いはしたが、決して逃げようとは考えていない。どんな言い方をしても悪く聞こえるのだ、女には。
「さっき代々木上原に電話したの」
「それで?」
「サインしないって。戻って来て産めば良いって」
「戻るのか」
「戻らない」
 そう言って彼女は再び俺の顔を見た。哀し気だ。
「私、初めてじゃないの」
「え?」
「大学時代に一度」
「留年したのはそのせいか」
「まあね。そればっかりじゃないけど、それで授業に出られなかったのは確かだわ」
「奴の子ども?」
「うん。あの時彼は考えもせずに、考える素振りさえ見せずに、堕ろせって言った。お金もポンと出してくれた。今更産めと言われても、自分が惨めになるわ。彼は私に逃げられてプライドが傷付いただけ。私が戻ったとしても、私に対しても子どもに対しても愛情なんて感じないと思う」
「良いよ、君の言う通りにする。彼の所に戻る必要は無い」
「ごめんなさい」
 俺の子どもを身ごもった女は泣かなかった。どうするんだと言った途端、それ見ろ男はみんな逃げるんだとでも言いたそうな視線を俺に向け、何も言わずにこの部屋を出て行った。決して逃げるつもりではなかったが、その顔を見た時、俺は本当にこいつを愛していたのだろうかと疑問を抱いた。それからは火遊びしか出来なくなった。京子も俺を愛していなかったのではないか。お互いに若かったし何も怖くなかったし纏わりつく責任も将来も無かった。
 今秋子は目に涙を浮かべている。同じ過ちを繰り返した自分に腹を立てているのか。こんな時、女は惨めなのだろうか。いつの世でも子どもを産むためだけに男に抱かれることが女に許されている。男はただ満足すれば良い。愚かなのは男だ。
 次の日彼女は気分が悪いのを隠して出勤し、水木金と有給休暇を取りたいと申し出た。俺は夏休みがまだだからついでに取ってしまえと、来週いっぱいの休暇を許可した。不幸にも土曜日が祭日で会社の休日に吸収されてしまい、休みを1日損している。それでも12日間彼女は休養できる。仕事がその間ストップすることになる。若杉も出社して来る気配無しでセクションワンは手薄だが仕方ない。俺が頑張ろう。
 水曜日の朝、彼女は朝食を摂らず身軽な格好で出掛けて行った。
「送ろうか」
と言うと、
「平気よ」
とちっとも平気そうじゃない顔をして答えた。
「迎えに行こうか」
と言うとまた、平気よと今度は投げ槍な言い方だった。

 昼休みに彼女に電話をした。出ない。まだ病院から戻っていないのだろう。3時過ぎにまた電話した。出ない。眠っているのかもしれない。ベルをオフにしているのかもしれない。5時を回ってからもう一度電話をした。6回目に出た。かすれた声で、はいと言った。
「俺」
「はい」
「どうだった」
「無事終了」
「具合は?」
「お腹が痛い」
「薬は?」
「大量にある」
「飲めよ」
「勿論。話してるのがツラいの」
「悪かった。じゃ切るよ」
 言い終わらぬうちに彼女の方から電話を切った。大変だ。決して他人を粗末に扱わない彼女がこんな態度をとるなんて。何だか残業をする気になれず机の上もそのままに急ぎ帰宅した。
「まだ痛い?」
 お帰りなさいと小さな声で言った後、
「うん、少し」
と小さな声で答えた。これが彼女の今の心境なのだろうか、ラヴェルのボレロが流れている。これは彼女のライブラリーだ。
「食事は?」
 首を横に振る。
「薬は?」
 同じく首を横に振った。
「飯を食わないと薬がのめないな。何か食べたい物はあるか?」
 首を横に振る。食べたくないだろうし動きたくもないだろう。俺は構わず豆腐の味噌汁を作った。鯵の開きを2枚グリルで焼き、沢庵を切った。素朴な日本の朝食のような夕食が出来た。トレイでベッドまで運んだ。彼女は箸を持ち、味噌汁を1口飲んだ。
「美味しい。上手ね」
「だろ?」
 曲はフォーレの幻想曲79番、アルビノーニのアダージョと小曲ばかりが流れている。どれも軽妙ではあるが美しいメロディーの下にどうしようもない苦しさがある。悲しみのあまり笑い出すような、悔しさに苦笑いするような、気持ちの引きつりがある。何故彼女はこんな選曲をしたのだろう。どんな心理状態の時に聴くつもりでこのテープを作ったのだろう。カチリとヘッドが回転して今度はB面だ。B面はA面とまるで違う。重厚な感じのする曲が集められている。ワーグナーのさまよえるオランダ人序曲、ベートベンのエグモント序曲、最後にはショパンの葬送。頭を抱え込みたくなるようなその1本のテープの選曲に、彼女の現在の心情を思った。
「テープ替えて良いかな」
「どうぞ」
 マイケル・フランクス。優しい歌声が好きだと彼女は言っていた。アントニオの歌が特に好きだと言っていたが、この曲はロバータおばさんの方が味があるぜ。
 彼女の隣に滑り込んだ。
「軽蔑した?」
 不意に彼女がはっきりとした声で言った。
「してないよ」
と答えたが、彼女は言葉通りに受け取っただろうか。俺も同じ穴のムジナなのさ。俺がこれからしなければならないことは今迄のように彼女を愛し、見守ることだ。俺の存在が彼女の傷を塞げるのなら、ずっと傍に居るよ。
 
 木曜日、俺が朝食を作っている間、彼女はベッドで新聞を読んでいた。コーヒーを持って行くと、昨日よりは明るい顔で、ありがとうと言った。彼女の笑顔が戻った。良かった。
「具合は?」
「もう何ともないみたい」
「薬は最後まで飲み切らないと」
「うん」
「起きても良いのか?」
「ううん、1週間は寝てなさいって言われた」
「そうか」
 夏休みも合わせて取らせておいて良かった。
「いくらかかるんだ」
「1ヶ月の治療費込みで6万円」
「安いんだか高いんだかわからんね」
「この前の時より1万円上がったわ」
「大学ん時?」
「そう。同じ病院に行ったの」
「どこ?」
「代々木上原。女医さんなの」
「へえ。2回お世話になったわけだ」
 くすりと鼻で笑った後、
「これで終わりにしなさいって言われちゃった」
「何て答えた?」
「はい、って」
「これで終わりさ」
「そうかな」
「終わりさ」
 俺はそう言ってキッチンへ行き、ミルクを火にかけた。それにさっきから良い香りをさせて出来上がっていたマンデリンを加え、カフェオレにした。2つのカップに注いで一方を彼女に渡した。
「今度は産む時にお世話になろう」
 彼女は、ふふふと笑って俺を見た。俺たちの子どもが生まれたら良いのにと心から思った。
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