『掌編小説集』
第十一章(1)
⒒『獣道』
 鷲尾徹太郎は幼少期から教科書に不信感を抱き、学校帰りに街中にある書店に通い詰めて参考書を立ち読みし、両親にせがんではこれはと想う参考書を買い揃えていた。当然、同じ教科の参考書が何冊も揃い、著者によって書き方の違いがあるのがそれぞれに面白く、級友が遊びに誘っても外出したがらず、逆に誘いにきた級友を家に呼び込んで、参考書の読み比べをする始末だった。
 徹太郎とは一つ違いの妹の杏子は、兄とは違って偏(かたよ)った考えを保たずにすくすくと育ち、将来は小学校か中学校の音楽教師を目指していた。国語は勿論のこと、算数に異常なほどの愛着を示す徹太郎に、これまた音楽に異常なほどの情熱を傾ける杏子は相性の点で申し分なかった。
 フランスの指揮者ジャン・フランソワ・パイヤールは、大學で数学教授を務めたのち、バロック音楽の指揮者となって活躍した。パイヤールは「数学と音楽は似通っている」と言っており、自ら音楽家に転向することで持論を証明した。物理学者に言わせるなら、音楽ばかりか宇宙そのものが数式で成り立っている世界とのことだ。
 お告げの中には、全文が数字、記号から成る「神示」という誠に有り難いお言葉もあるそうだ。数字と記号だけのお告げなるものを、読み解く特殊な能力を持った霊能者と称する、特殊能力者が「神示」なるお告げを、読解可能な文章に書き直した文献は、書店を介して容易に入手可能であるらしい。
 両親は、日曜日ぐらいは外で野球でも楽しんだらどうかと想いながら、さして貧弱でもない息子の体格を診て、学校まで走って通っているのだし、まあ余計なことは言わない方がよかろうと黙ってしまうのが常だった。知能指数は最上位なのに学業成績はあまり振るわず、そのことでは幾ばくかの不安はあった。しかし、旺盛な読書欲を考慮して、両親はこれまた余計なことは言わない
でおこうと想うのだった。
 ルイ・ドゥブロイなる理論物理でノーベル賞を受賞した、イタリア系フランス貴族は大學で文学を専攻、兄の実験室に通う中に、理論物理に転向し、物理学者として大成した希有な人物だった。その理論物理学者に倣うならば、我が家の徹太郎だって、将来、偉大な学者になることだって不可能ではない。
 嫌いな教科には眼もくれず、まだ小学校低学年にも拘わらず、中学、高校の参考書を買い揃えていた。数学と国語の参考書が書棚の大半を占める異常ぶりに、級友は只々驚き呆れて言いたいことも言わずに、徹太郎の読み比べ作業に協力
する始末だった。
 ところが、その徹太郎に異変が生じ、両親はおろか級友までをも呆れさせることになった。夜中の2 時過ぎになると、両親の止めるのもきかずに外出し、何処へ行くのか明け方まで帰ってこないのだ。本人は大気の調査などと言って胸を張っているが、帰宅した時の疲労困憊ぶりは尋常ではなかった。
 なにか事件でも起こさなければよいが――両親は徹太郎の異常な行動をハラハラしながら視ているばかりで、これといった対処もせずに過ごしていた。徹太郎は疲労困憊している割には食欲旺盛で、相変わらず走って通学していた。両親としては世間体を考え、表沙汰にならないようにそれなりに心配りをしていた―
―その中に困った行動もとらなくなるだろうと、儚い期待を抱いて。奇行に走らなければ、他人様に迷惑をかけさえしなければ、何事もなく学校を卒業し大学に進学してくれれば、両親としては何も言うことはないのだが。
 ある日の午前2 時すぎ、例によって徹太郎は両親と妹の熟睡したのを視届けると、ジャンパーにジーパンの恰好で裏口からこっそり外出した。徹太郎は軽くフットワークを効かせながら、ジョッギングする振りをし、車道から逸れて山道へと入って行って全速で駈けた。まるで追撃を躱すようなその行動は、端からは逃亡者を視る想いがしたにちがいない。小学生に過ぎない徹太郎の、何処にそんな体力があるのか不思議なくらいの驚速ぶりだった。結局、両親や妹が起き出して、徹太郎の行く先を突きとめようとしても不可能だった。
 徹太郎は、両親や妹が後を尾けてくるのを予測し、眼を瞑(つむ)っていても通れる、馴染みの山道を走りに走って追いつけないようにしていたのだ。ある日、妹の杏子が兄のジャンパーに、超小型の発信器を取り付けてみてはどうかと提案した。両親は半ば諦めていただけに、願ってもないとばかりに早速実行に移すことにした。
 徹太郎と杏子が学校へ行ってる間に、母の由貴子が襟の裏側にフィルム状の発信器を、縫い付けておくことになった。徹太郎がいくら用心深くとも、よもや襟の裏側に殆ど重さを感じないほどの軽い発信器が、取り付けてあるとは想像もしないだろう。午後1 1 時すぎ、両親と妹の杏子は、徹太郎が発信器に気づかないよう祈って床に就いた。
 発信器からの信号を受信できる範囲はせいぜい、半径三キロメートル以内とのことなので、追跡するのはそう簡単ではない。日頃ジョッギングで鍛えた父の兵衛門にとっても、暗がりの中を追跡するとなったら難儀この上ないだろう。しかし、泣き言をいっさい言わない兵衛門は、ジョッギング・シューズをベッドの下に隠し、眠ったふりをして息子が起き出すのを密かに待った。
 由貴子は兵衛門の隣で毛布を被り、己れの至らなさを嘆き、悲嘆に暮れて忍び泣いていた。善良なばかりに、いっそう自責の念に駈られ易い由貴子は、息子が昔通りの明るく活発な子に戻ってくれるよう祈るしかなかった。
 二階の寝室で耳をすます兵衛門には、一階を密かに動き回る徹太郎の足音が聴こえていた。枕元の時計は午前二時すぎを指している。裏口のドアを閉める音が聴こえてきたのを合図に、兵衛門はベッドから起き出すと大急ぎで着替え、ジョッギング・シューズを持って一階へ駈け降りた。受信器をジャンパーの胸ポケットに入れ、イアフォンを左耳に差し込んだ。発信器の信号が受信器からイアフォンを通して聴こえてくる。
 目標までの距離を音の強弱ではなしに、リズミカルな低音で発信音を生成するところが、この受信器のユニークな処だった。対象とする相手に、発信音が聴こえないような設計になっているのだ。接近しすぎても、気取られないので安心できた。
 兵衛門は裏口でジョッギング・シューズを履き、ドアをそーっと開け閉めして外へ出ると、発信源を辿ってできるだけ音をたてないようにして走り始めた。車道を走ること数分、発信音が小刻みにリズムを奏で、目標である徹太郎が方角を変えた模様を伝えてよこした。兵衛門は車道から曲がりくねった上りの山道に分け入った。
 リズムによって遠近や方角を表現するなど心憎いばかりだ。杏子は何処からこういった独創的な製品を視つけてきたのだろうか――流石、音楽教師志望のことだけはある、などと兵衛門は感心しながら走り続けた。ゆっくりしたリズムが擬似的なメロディとなって、イアフォンを通して聴こえ、徹太郎との間隔が二キロ
メートル以内と推測できた。
 皮膚に伝わってくる軽い振動に気づき、徹太郎は誰かが追いかけてきているのではないかと想いながら、軽快に暗闇に近い山道を上へ上へと走り続けた。もし、追ってきているのが父だったら、心臓に問題が起こらないよう祈るだけだ。尾けてきているのが変態野郎なら、二度と邪な情欲に溺れないように八つ裂き
にしてやらねば――。徹太郎の本心を知ったら、級友や教師ばかりか品行方正な大人までが、怖れをなして遠ざかっていくだろう。
 大人なんてどうでもよいが、仲良しの級友までが敬遠するようになったらその時はその時だ。不本意ではあるけど、この世で友人なしの孤独な一生を終わるのも悪くはない。
 厳密にいうなら、人間どころか如何なる生命にも孤独は存在しない。なにしろ、神様が四六時中、この世からあの世に到るまで、厳しくも思い遣り深い眼差しで視回しておいでなのだ。しかも、良い行ないから悪い行ないまで細大漏らさず記録に残すのだから、言い訳も逃げ口上も一切とおらない。誤魔化そうものな
ら、舌を抜かれた上に、釜茹での罰を喰らうにちがいない。丁度よい湯加減にして欲しいと、厚かましい希いをしてみても無駄ってものだ。罰を喰らう覚悟で悪事を働くなら視上げたものだが、凶悪な奴ほどその場になったら、竦み上がってしまうのだから笑止千万だ。
 兵衛門はリズミカルな信号音を聴きながら、うねりくねった山道を上がり続け、やがて樹木の密生した平地に入った。相変わらず発信音は聴こえてくるが、徹太郎がどの辺りを走っているやら見当つかない。辺りの様子が一変していた。 
 兵衛門は闇の中に葡萄園が視えるのに驚き、その葡萄園を取り囲むように堀があるのに気づいた。水を湛えた堀に妖気を感じて視おろすと、なにやら水面に浮き沈みしていた。兵衛門は人形だろうかと想いながら、近づいていって確かめてみた。それは頭を擡げ、真っ赤な眼で兵衛門を視据えると、剣歯の生えた口を大きく開けてニタニタ笑った。動悸が高鳴り、恐怖が頂点に達するかに想った瞬間、兵衛門は神殿の中に佇んでいた。
 徹太郎が誰かと話している話し声が、周囲一帯から聴こえてくるのに気づき、辺りを視回してみるが何処にもいない。兵衛門の意識の中に広大な宇宙が広がり、荘厳な楽曲が一定のリズムを刻みながら轟いた。その楽曲に合わせるかのよ
うに、徹太郎が何者かに向かって話すのが聴こえてきた。
 徹太郎の声は澄んでいて、荘厳な楽曲の中を縦横無尽に飛び交った。その声を追いかけ、地の底から噴き上がるように、地響きする声が大音響を発した。やがて、荘厳な楽曲や澄んだ徹太郎の声、さらに地の底から噴き上がる声のすべてを、鋭い風の音が天空をズタズタに斬り裂きながら掻き消してしまった。
 看護婦が注射器を乗せたトレーを手にしてベッドに近づくと、太い注射針を兵衛門の腕にブスリと刺した。兵衛門はあまりの痛さに、大声を上げようとして徹太郎の眼と合ってしまい、吐き出そうとした息を飲み込んで噎せ返った。立派な口髭を蓄えた徹太郎は、「親父、夜中にジョギングするなんて無謀な真似は当分
お預けにしないと、死んだおふくろに申し訳たたないぞ」と言った。
 なんだと? 由貴子が死んだと言ったのか、徹太郎。それにしても、その髭はなんだ、みっともない。ジョギングして山道に入っていって迷ってしまい、気づいたらこのざまあだ。まだ小学生だった徹太郎がいきなり髭を生やして儂に説教するとは、いったいどうなっているんだ。
 そうか、どうやら天国かそれとも煉獄、地獄――なんと呼ぼうと、こいつは幻覚にちがいない。あの発信器と受信器、それにイアフォンさえ探し出せたら、すべてがまやかし、茶番
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