『掌編小説集』
第十一章(2)
劇と分かるのだが――。おやおや、いい女が近づいてきたと想ったら杏子じゃないか。ずいぶん大きくなった上に、丸で王女のような身形をして。
 「お父さん、具合はいかが? 退院したら、わたしの演奏会を観にきてね。夫も心待ちにしているのよ、お父さんに会うのを」誰の許しを得て、まだ若いのに所帯を持ったり。儂に断りなしに、何処の馬の骨とも知れない奴を亭主に迎えるなんて、怪しからん。
 複数の人の話し声や犬の吠え声が、初めは微かに、やがて騒々しいほどのざわめきとなって聴こえてきた。頸筋に凍えた鉤爪が触れたような痛みを伴った冷気を感じ、兵衛門は跳ね起きて辺りを視回した。徹太郎が警察官を4 、5 人したがえ、懐中電灯で兵衛門の顔を下方から照らした。
 「お父さん、こんな処で何してたの? 寝室に行ってみたら居ないので、お母さんに留守番を頼んで、杏子と一緒に探し回ってやっと此処に辿り着いたの」
 そういうお前こそ何処に行っていたんだと言いかけ、兵衛門は複数の警察官が周りを取り囲み、心配そうに視ているのに気づいて黙り込んだ。
 年配の警察官が、子供にでも話すかのように兵衛門に話しかけた。「気がついて好かった。徹太郎君や杏子ちゃんが交番に跳び込んできた時には、何事かと驚きましたよ。捜索となったら一人や二人では無理ですから、シェパード犬まで動員し、兵衛門さんをやっとのことで探し当てたって訳です。どうして、こんな
処に倒れていたんです? 」
 兵衛門は、なんと説明したら信じて貰えるやら分からず、しばらく黙り込んでいた。どうしたもこうしたもない、気づいたら傍に大勢が集まっていた。誰かを追いかけていたのは覚えているのだが、それが誰なのか憶い出せないのが解せない。胸元に手を当てて機器らしいものを探したが視当たらず、耳に当てていた何やらもなくなっていた。
 辺りが明るくなってきて、大気温度がゆっくり上昇し始めた。徹太郎と杏子は、兵衛門の手をとって家の方に向かった。兵衛門は膝のふらつくのを何とか堪えながら、二人に手を引かれるままに坂道を降りて行った。警察官らはシェパードを従えて叢の捜索に熱中し、三人を引き留めようともしなかった。
 他にもっと気懸かりな兆候にでも気づいた様子だ。いつの間にやら、兵衛門の倒れていた周囲に、立ち入り禁止のロープが張り巡らされ、軍の制服に身を固めた一個小隊が立哨任務に就いていた。警察官も国防軍軍人も、軽はずみに真相を口外するはずはないが、U F O 絡みの事件と診ているのは明らかだった。
 兵衛門は帰宅後、一階の居間でソファに心配顔で座っている由貴子に会った。由貴子の強ばった笑顔に、兵衛門は一瞬だがたじろいだ。警察署や軍情報部から何者かがやってきて、当人は否定しているが、留守番をしていた由貴子に何やら根掘り葉掘り問い質していったにちがいない。
 兵衛門が記憶喪失に陥っているなら、格別に口封じをする工作は必要なかろうが、神経質な由貴子を黙らせるためには警察や軍情報部は、少々人間性を逸脱する行為に及んだかも知れない。由貴子が頑ななに押し黙っているのが何よりの証拠だ。兵衛門は身内に怒りがふつふつと煮え滾(たぎ)るのを覚え、全身をブルブル震わせて今にも卒倒しそうだった。
 元はといえば、徹太郎が夜毎、夜毎に山中を彷徨う、狂気じみた行動を繰り
返したのが発端だった。そうかといって、まだ小学生の徹太郎を問い詰めたところで、明確な回答を引き出せるはずもなく、まかり間違えれば虐待の非難を浴びかねない。隣近所の煩さ方が、あらぬ噂を撒き散らすことにでもなったら、如何な忍耐強い兵衛門でさえ堪忍袋の緒を切らすだろう。徹太郎も杏子も銘々の部屋で眠りに就いていて、家の中は通夜の晩かと想えるほど深閑としていた。兵衛門が立ち上がって、由貴子の肩にそっと触れた直後、由貴子は何かから逃げるようにして、兵衛門をこれまでにないほど驚かせた。
 午前4 時を過ぎていたが、疲労困憊のあまり起きていることも儘ならず、二人は手に手を取って二階の寝室へと向かった。徹太郎や杏子には、しばらく登校を中止し、部屋で自習して貰うことにしよう。学校の方ではどの道、ニュースでそれとなく知った学童らが噂し合うにちがいなく、ほとぼりが冷めるまでは休学にしておくのがよかろう。寝室でうとうとしながら、夫婦間で話し合った結果はそういう処に落ち着いた。なにはともあれ、起床は6 時が定刻なので、それまでは仮眠を摂っていられる。少しでも、体力を温存しておかないと、これからどんな事態が出来(しゅったい)するか想像もつかない。
 製鉄業を生業とする兵衛門は、創業者として健全、順風満帆の安定した企業にするべく日夜苦闘していた。合金の製法特許を数件保有する兵衛門にとって、画期的な合金を造り出すのが生涯の夢だった。あと一歩で、夢のような合金を手にすることができるのだ。小型の溶鉱炉を前にして従業員の先頭に立ち、兵
衛門は合金造りに専念していた。溶鉱炉から発する高熱が、皮膚を焼き尽くす勢いで発散してくる。熱い、なんという熱さだろう、焦熱地獄とはこのことか… … そう想いながら額を拭おうとして眼が醒めた。
 寝室の中は、真夏でもないのに摂氏4 0 度を超えていた。エアコンを停めておいたのがいけなかったか、このままでは二人とも蒸し焼きになる。兵衛門はベッドから起き上がってスリッパを履き、酸欠に苦しむ魚のように口を開けて喘ぎながら、出窓に近づいて行って眼一杯に開け放った。
 熱風が寝室内部にドッと押し寄せ、次いで兵衛門はもちろん、ベッドの毛布の中で微睡んでいた由貴子も文字通り蒸し焼きになっていた。住宅全体が燃え上がり、広大な天空を紅蓮の炎が嘗め尽くして太陽光を遮った。数台の消防車が急行した時には、住宅はわずかな塵芥を残して跡形もなく蒸発してしまっていた。
 2、3の地方紙が伝えるところによると、兄妹の遺体は灰の中からは検出できず、鷲尾夫妻の遺体と想われる瑠璃色をした硬い石が2個、焼け跡から視つかったという。
 一頃、兄と妹と想われる二人連れが、繁華街の舗道を嬉しそうに、手を繋いで歩いていたとの噂が飛び交った。しかし、非公式情報の例に漏れず、二人の行方を知る者のないまま、今回の謎めいた事件は忘却の彼方に霞んでしまい、ありきたりの日常に戻っていた。 [完]
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