恋、花びらに舞う

腹が減ったな……と漏らした和真に、由梨絵ははにかみながらうなずいた。

食事も忘れて互いを求めることに溺れ、ふと空腹を思い出した恥ずかしさがふたりの顔に滲んでいる。

デリバリーでも頼むかと言う和真へ、「こんな遅くに? 真夜中よ」 と返して由梨絵は立ち上がった。

長期の遠征で留守がちな和真の部屋には、おそらく何もないだろうと思って少しばかり食材を用意してきた。



「キッチン、借りてもいい?」


「あぁ、だが、なにもないぞ。あるのはビールくらいだろう」



何もないと言った和真の言葉通り、キッチンは閑散としていた。

食器はおろか調理道具ひとつ見当たらず、冷蔵庫の中には数本のビールが寒々しく横たわるのみ。

唯一、重厚なコーヒーメーカーがキッチンカウンターに鎮座していた。

外国の老舗メーカーのそれは、和真らしいこだわりが見える一品である。

それでは、コーヒー豆はあるのではないかと探すが、やはり見当たらない。



「コーヒーは? あなた、一日に何杯も飲むでしょう」


「遠征から帰ってきたら、そのつど豆を買ってる。今日は時間がなかった」


「じゃぁ、これから買い物に行きましょう」


「これから?」



ここに来る途中に24時間営業の店を見かけた、ほかにも買いたい物があるから出かけようと誘う由梨絵へ、和真は渋い顔をした。



「それより、車で出かけて食事をしよう。買い物は明日でもいいだろう」


「歩いていきましょうよ。歩いて10分もかからないと思うけど。食事ができるところ、近くにないの?」


「あるにはあるが、俺は車がいい」



歩いて外の空気を感じたい、あなたが住む街を一緒に歩きたいのだと言われて、和真は渋々承知した。

「すみません」 の声とともに女性が近づいてきたのは、ふたりがマンションを出てすぐだった。

とっさに由梨絵の腕をつかみ背中に引き寄せた和真は、睨みつけるように女性を見た。

マスクをした顔から見える目は、和真の威嚇する様子におびえている。

「そんな怖い顔しないで」 と和真をたしなめてから、由梨絵は女性に 「お困りですか」 と声をかけた。



「あの……近くに交番はありませんか」


「ごめんなさい、私もわかりません。ねぇ、和真、知ってる?」


「交番は、たしか駅前にあったはずだが」



由梨絵に名前を呼ばれたことでわずかに頬が緩んだ和真へ、



「駅前ですね、ありがとうございます」



ぎこちなく頭を下げて女性は、くるりと背を向けて歩いていった。

女性の背中から視線を和真に移した由梨絵は、和真を軽く睨んだ。



「道を聞いただけの女性を怖がらせないで」


「ゆうを狙ったのかと……なんでもない」


「私、狙われてるの? 気をつけなきゃ」



そう言いながらも、まるで緊張感のない由梨絵へ、実は留守宅のポストに何通もの怪しい手紙が入っていたのだと和真は険しい顔をした。

和真の帰りを待っている、自分の悪いところは直すから、和真も浮気はしないで欲しい、今度こそやり直しましょうと書かれた手紙には女の写真も同封されていた。



「マスクで顔を隠していたから、怪しいと思った」


「マスクだけで疑うのはどうかと思うけど」


「写真の女に心当たりはない。昔どこかで会ったかもしれないが、覚えていない。

手紙の文面から思い込みの激しいことはわかる。俺がゆうと一緒にいるところを見て、逆上するかもしれない。

どんなことを仕掛けてくるかわからないんだぞ、わかってるのか」


「さっきみたいに、和真が守ってくれるんでしょう?」



涼しい顔が和真を覗き込む。

和真の大きなため息がでた、その直後、物陰から飛び出してきた女が由梨絵に体当たりした。

いましがた交番はどこかと尋ねた女だった。



「わたしたち、何度も会ったじゃない。レースだってずっと応援してた。

朝比奈さんはスタンドの私を見つけて、いつも手を振ってくれたのに、浮気しないでって手紙でも頼んだのに、こんな女のどこがいいのよ」



わめき散らす女を捕まえるより、和真は路上に倒れた由梨絵へ駆け寄る方を選んだ。

「大丈夫か」 と心配する顔を押しのけた由梨絵は、威勢よく起き上がった。



「私に言いたいことがあるなら言いなさい。いくらでも聞いてあげる」


「どうして……どうして……そんな女がいいのよ」



由梨絵の勢いに怖気づいたのか、女の声は弱々しくなった。



「勘違いしないで。私が彼を選んだの」



由梨絵の落ち着いた声が夜の道に響く。

逃げ出そうとした女は、騒ぎを聞きつけて飛び出してきたマンションの警備員に捕らえられた。
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