あまやかに響く
しかし菱川は、ニタァと笑い、煙を盛大に吹き出し、
「えへ、知りたい? 俺とデートしてくれたら教えてあげる」
と言った。
「うざい無理」
カナエの目が死んでいる。
菱川は、灰皿に煙草を押し付け、ウェイターが持ってきたアイスグラッセを見て、ニタニタ笑いながらなぜか指を突っ込んだ。
「はぁ? 」
カナエの顔から、笑顔は完全に消え、ナマハゲどころか鬼の形相になり、鞄を抱えてヒールを踏みならし、店を出て行ってしまった。
「なんてことするんですか......」
私が困り果て、ウェイターも困り顔で、菱川は次の煙草に火をつけた。
「だって、俺、煙草吸えない女ってだめなんだもん。うざいとかくさいとか失礼じゃない? 」
ニタニタ顔をやめた菱川が、横を向いて煙を吐く。
「私のことも考えてくださいよお」
「めんどくさいから無理」
鬼がもう一人いる。
菱川は、あーあ、とぼやいた。
「あーあ。俺、こんなんだから彼女に振られ続けてさ、多分結婚とかもう出来ないんだろうなあ。女って本当めんどくさい。下手に出れば調子に乗るしさ。おだてりゃ図に乗ってすぐ浮気。あーあ。カナエさん、良いと思ったんだけどなあ。なんでこうなっちゃうんだろう。なんでだと思う? 」
なんでだろう。全てがいけなかったんじゃないだろうか。
「どこを見て良いと思ったんですか? 」
「顔」
「それも失礼にあたると思いますよ」
「そっかあ」
それで、と身を乗り出した菱川の顔には口元にいやらしい笑みをたたえていた。
「それで? 桜山さんこそ、木森のどこが良いと思ったわけ? 」
「菱川さん絶対、絶対だれにもその事喋らないでくださいよ! 」
「もちろーん」
言う。この人は、言う! ああ。
「困りますよ。私自身、自覚したのがつい昨日、なんですから」
菱川は頭をかいて、バツの悪そうな表情で、
「わかったよ。その代わり、あいつとちゃんと、“恋愛”してくれよ......」
と言った。コーヒーカップは空になり、菱川と別れたのち、私は支払いをいつのまにか済ませてくれていた菱川がスマートなんだかそうでないのかよく掴み所のない人だ、と思った。
春はもうすぐそこまで来ている。
風が、冷たい中に一筋、豊かな香りを乗せていた。
自由が丘で待ち合わせた木森は、いつものスーツとは変わり、ラフでカジュアルなジーンズに青いジャケットとストライプのコットンシャツという出で立ちだった。
私はというと、気張りすぎるのは柄じゃない、というか気持ちにすぐ気付かれてしまうのは癪に触るような気がして(素直じゃないよな、私)チョコレイト色のコートの中にチャコールグレーのニットと黒のワイドパンツでなんとなく誤魔化したつもりだ。でも、髪にはヘアコロンをひとふり使ったし、爪にはカメオピンクが乗っていた。
これって、デートなんだろうか。
デート、なんだろうか。
【グリーン】の緑色に塗られた扉にはドライフラワーのリースが数個飾ってあって、木森が開くと軽やかなドアチャイムが音を鳴らした。
「どうぞ」
木森が微笑む。
木森がレディファーストな紳士に見えてきた。
鼓動が鳴り止まない。
足を踏み入れると白い砂壁と白い板張りの床に、重厚なアンティーク什器がしつらえてあり、かすみ草が色とりどりの花瓶に誇らしげに飾られていた。
アロマの香りが微かにしたのは、電子タバコを蒸す店主のせいかもしれない。
「いらっしゃい」
店主の口から煙と同じ態度でその言葉が出たと思ったら、店内の常連らしき人々が和やかな話を止め、こちらを睨め付けるように見た。
私たちは小さくなりながら、木森も先ほどのレディファーストな紳士の面影もなく、鼠小僧ばりの猫背と忍び足で情けなく出口付近のカウンター席に縮こまった。
私も仕方なく彼の隣に腰をおろした。
だらしなく結んだエプロンの金髪ウェイターがおしぼりを粗雑な手つきで置き、木森はそれを広げて顔を拭いた。
心象は最悪以下だったが、私は口が開いて閉まらなかった。
これはデートではない、そういう曇り陰った気持ちが自分を襲いこむ。
「俺、アイスコーヒーで。あ、あ桜山さん、どうする? 」
「それじゃ、私もそれで」
一気に肩透かしくらった後の気持ちになった私は、視線の先のカメオピンクが急に恥ずかしくなってきて、袖を伸ばして隠した。
そんなこと木森にはひとつだって気づいてもいないらしく、ペラペラと菱川や浅見についての話を展開した。
隣に座っていた、初老の男性がじっとこちらを見つめているのも気にせず、木森は一人で笑ってオチをつけもせず一人で「そうなんだよ」と締めて言葉を切ってアイスコーヒーを飲んだら咳き込み出した。
なんでだかしらないが、初老の男性は真顔のまま私と木森を見続けているが、私も恐ろしい気持ちのまま、木森が気づいているのかどうかが気になってきた。
「そうだ今度、映画見ない? 」
木森の唐突な誘いは全くムードに合っていないし、木森自身も冷や汗をかいていて、初老の男性は鼻で笑ってあちらを向くし、なんだか可哀想な上に、不思議と可愛らしく見えてきて、自分には母性本能とやらが備わっていたことを知る。
「いいですよ、何観ます? 」
微笑んだら思いのほか、木森は驚いた模様でアイスコーヒーを幾度か零した。
私たちが外に出ると風は少し冷たい夕方で、食べなかったバナナケーキもカボチャタルトも、そんなことより私と木森はお互いの顔を見て第一声に、
「あのじーさん何?! 」
とハモりながら笑い転げた。
「なにがまったりごゆるりぐるうぷなんだろう」
ひとしきり笑った後に私が言うと、木森は頷いて
「まったくだ」
と石ころを蹴った。
その石ころを追いかけて木森はまた蹴った。
「どこ行くんですか」
私もその石ころを追いかける木森を追いかけた。
「それは石に聞いて! 」
木森は石の意思に従って斜め右に斜め左に走った。
「そんなの木森さんの思うがままじゃないですか」
私が息が上がりそうになりながら言うと、
「俺、昔、野球やってたんだぜ」
また石ころを蹴る。
「関係、ないでしょ! 」
笑ったらもっと息が上がって、追いかけて、追いかけて、ずっと追いかけていたい、なんて思っていたのは、まだ内緒だ
「えへ、知りたい? 俺とデートしてくれたら教えてあげる」
と言った。
「うざい無理」
カナエの目が死んでいる。
菱川は、灰皿に煙草を押し付け、ウェイターが持ってきたアイスグラッセを見て、ニタニタ笑いながらなぜか指を突っ込んだ。
「はぁ? 」
カナエの顔から、笑顔は完全に消え、ナマハゲどころか鬼の形相になり、鞄を抱えてヒールを踏みならし、店を出て行ってしまった。
「なんてことするんですか......」
私が困り果て、ウェイターも困り顔で、菱川は次の煙草に火をつけた。
「だって、俺、煙草吸えない女ってだめなんだもん。うざいとかくさいとか失礼じゃない? 」
ニタニタ顔をやめた菱川が、横を向いて煙を吐く。
「私のことも考えてくださいよお」
「めんどくさいから無理」
鬼がもう一人いる。
菱川は、あーあ、とぼやいた。
「あーあ。俺、こんなんだから彼女に振られ続けてさ、多分結婚とかもう出来ないんだろうなあ。女って本当めんどくさい。下手に出れば調子に乗るしさ。おだてりゃ図に乗ってすぐ浮気。あーあ。カナエさん、良いと思ったんだけどなあ。なんでこうなっちゃうんだろう。なんでだと思う? 」
なんでだろう。全てがいけなかったんじゃないだろうか。
「どこを見て良いと思ったんですか? 」
「顔」
「それも失礼にあたると思いますよ」
「そっかあ」
それで、と身を乗り出した菱川の顔には口元にいやらしい笑みをたたえていた。
「それで? 桜山さんこそ、木森のどこが良いと思ったわけ? 」
「菱川さん絶対、絶対だれにもその事喋らないでくださいよ! 」
「もちろーん」
言う。この人は、言う! ああ。
「困りますよ。私自身、自覚したのがつい昨日、なんですから」
菱川は頭をかいて、バツの悪そうな表情で、
「わかったよ。その代わり、あいつとちゃんと、“恋愛”してくれよ......」
と言った。コーヒーカップは空になり、菱川と別れたのち、私は支払いをいつのまにか済ませてくれていた菱川がスマートなんだかそうでないのかよく掴み所のない人だ、と思った。
春はもうすぐそこまで来ている。
風が、冷たい中に一筋、豊かな香りを乗せていた。
自由が丘で待ち合わせた木森は、いつものスーツとは変わり、ラフでカジュアルなジーンズに青いジャケットとストライプのコットンシャツという出で立ちだった。
私はというと、気張りすぎるのは柄じゃない、というか気持ちにすぐ気付かれてしまうのは癪に触るような気がして(素直じゃないよな、私)チョコレイト色のコートの中にチャコールグレーのニットと黒のワイドパンツでなんとなく誤魔化したつもりだ。でも、髪にはヘアコロンをひとふり使ったし、爪にはカメオピンクが乗っていた。
これって、デートなんだろうか。
デート、なんだろうか。
【グリーン】の緑色に塗られた扉にはドライフラワーのリースが数個飾ってあって、木森が開くと軽やかなドアチャイムが音を鳴らした。
「どうぞ」
木森が微笑む。
木森がレディファーストな紳士に見えてきた。
鼓動が鳴り止まない。
足を踏み入れると白い砂壁と白い板張りの床に、重厚なアンティーク什器がしつらえてあり、かすみ草が色とりどりの花瓶に誇らしげに飾られていた。
アロマの香りが微かにしたのは、電子タバコを蒸す店主のせいかもしれない。
「いらっしゃい」
店主の口から煙と同じ態度でその言葉が出たと思ったら、店内の常連らしき人々が和やかな話を止め、こちらを睨め付けるように見た。
私たちは小さくなりながら、木森も先ほどのレディファーストな紳士の面影もなく、鼠小僧ばりの猫背と忍び足で情けなく出口付近のカウンター席に縮こまった。
私も仕方なく彼の隣に腰をおろした。
だらしなく結んだエプロンの金髪ウェイターがおしぼりを粗雑な手つきで置き、木森はそれを広げて顔を拭いた。
心象は最悪以下だったが、私は口が開いて閉まらなかった。
これはデートではない、そういう曇り陰った気持ちが自分を襲いこむ。
「俺、アイスコーヒーで。あ、あ桜山さん、どうする? 」
「それじゃ、私もそれで」
一気に肩透かしくらった後の気持ちになった私は、視線の先のカメオピンクが急に恥ずかしくなってきて、袖を伸ばして隠した。
そんなこと木森にはひとつだって気づいてもいないらしく、ペラペラと菱川や浅見についての話を展開した。
隣に座っていた、初老の男性がじっとこちらを見つめているのも気にせず、木森は一人で笑ってオチをつけもせず一人で「そうなんだよ」と締めて言葉を切ってアイスコーヒーを飲んだら咳き込み出した。
なんでだかしらないが、初老の男性は真顔のまま私と木森を見続けているが、私も恐ろしい気持ちのまま、木森が気づいているのかどうかが気になってきた。
「そうだ今度、映画見ない? 」
木森の唐突な誘いは全くムードに合っていないし、木森自身も冷や汗をかいていて、初老の男性は鼻で笑ってあちらを向くし、なんだか可哀想な上に、不思議と可愛らしく見えてきて、自分には母性本能とやらが備わっていたことを知る。
「いいですよ、何観ます? 」
微笑んだら思いのほか、木森は驚いた模様でアイスコーヒーを幾度か零した。
私たちが外に出ると風は少し冷たい夕方で、食べなかったバナナケーキもカボチャタルトも、そんなことより私と木森はお互いの顔を見て第一声に、
「あのじーさん何?! 」
とハモりながら笑い転げた。
「なにがまったりごゆるりぐるうぷなんだろう」
ひとしきり笑った後に私が言うと、木森は頷いて
「まったくだ」
と石ころを蹴った。
その石ころを追いかけて木森はまた蹴った。
「どこ行くんですか」
私もその石ころを追いかける木森を追いかけた。
「それは石に聞いて! 」
木森は石の意思に従って斜め右に斜め左に走った。
「そんなの木森さんの思うがままじゃないですか」
私が息が上がりそうになりながら言うと、
「俺、昔、野球やってたんだぜ」
また石ころを蹴る。
「関係、ないでしょ! 」
笑ったらもっと息が上がって、追いかけて、追いかけて、ずっと追いかけていたい、なんて思っていたのは、まだ内緒だ