ぜ、ん、ま、い、と、あ、た、し
工場には水道が通っていなかったので水源は井戸だ。洗濯も、食器洗いも、お風呂も全て井戸水だった。

あたしは皆が寝静まる昼間に、井戸で体を洗った。

蒼穹の下の水浴びはなかなかオツなものだった。逆に夜に水浴びは出来なかった。寒過ぎて。

木浴から戻ってくると、食堂の隅にナオヤがいた。

彼は床に直接座って、写真を見ているようだった。

引越しの時に前のアジトから運び込んだものの、壁に飾る余力もなく、箱に入れられたまま放置されていたものだ。

きっと昔の写真に在りし日のヒメを追想しているのだろう。

何とも切ない背中のぜんまい。

あたしは邪魔しないように、静かに食堂の脇を通り過ぎようとした。

「黒谷」

2、3歩行ったあたりで呼び止められた。

あたしは決まりが悪い思いをしながら、その場に留まる。

「声くらい掛けろ。無視するな」

「すみません。そういうつもりでは」

写真立てを箱に放り込み、ナオヤがのっそりと立ち上がる。

ズボンの埃を叩きながら、こちらに近付いて来るのを見て、あたしはどことなくそわそわした気持ちになった。
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