一筆恋々

【十二月二十四日 静寂より手鞠への手紙】


あの春の夕暮れ、我が家の塀の上で、貴女は群がり咲く小手鞠の花蔭に身を寄せて居た。
その隣で私は、我が身の運の無さをつくづく嘆いていました。
なぜ私の相手は貴女ではなかったのか、と。

だから貴女を許嫁(いいなずけ)と呼べるようになって、本当ならすぐにでも迎えに行きたい位だったのに、そんな態度をあからさまにする訳にいかず、何時もつまらぬ言い訳ばかり並べてしまった。
後悔しています。

初めて会った日に貴女を抱き上げた時の、衣擦れの音さえ忘れられないのに、貴女を忘れる事など出来ないでしょう。
これは運の無さではなく、恩ある兄の戻りを待たず欲を出した罰だと思う。

しがらみも過去も何もかも、届かない世界に二人で逃げられたら、と何度も考えた。
けれど、貴女にそんな閉ざされた世界は似合わない。
太陽が草の呼吸を誘うような、風が花々を渡って行くようなこの場所と、地続きで生きていて欲しい。
大切な家族や友人と、暑さも寒さも分け合って笑い合う貴女が良い。

だから、貴女と兄の結婚を見届けたら、私はこの家を出ます。
貴女の手紙を全て持って。
戻るつもりは有りません。

自惚れて言わせて貰えば、貴女は今泣いているのではないかと思う。
貴女が私に向けてくれたその気持ちは、痛みを伴う程に嬉しかった。

だけどどうか私の事など綺麗さっぱり忘れて欲しい。
私の為にに辛い思いをして欲しくない。
幸せになって欲しいのです。
何時も笑っていてください。

さようなら。


大正九年十二月二十四日
久里原静寂
愛する手鞠殿
(未投函)


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