次期国王は独占欲を我慢できない
「アネット、これ乾いたから厩舎に持って行ってもらえる?」
「あ、はい」

 “厩舎”という言葉に、アリスの耳がピクリと反応する。
 アリスは汚れた服が山盛りになったカゴを両手に持ち、洗濯室に持って行こうとしていたが、つい足を止めてそちらを見てしまった。すると、「はい」と答えて受け取ったにも関わらず、アネットは渋い顔をしていた。
 アリスの視線に気づき、アネットは小さくため息をつく。

「私、厩舎って苦手。あの匂いが髪に移りそうで」
「それに、今日は殿下が訓練にいらっしゃる日だものね」
「ちょっと、マリア!」

 マリアが茶々を入れると焦って否定するが、それでは図星だと言っているようなものだった。

「あの……私、代わりましょうか?」
「え、本当?」
「はい。代わりにこれをお願いできれば」

 代役を申し出たアリスに、アネットは顔をほころばせる。
 それもそうだろう。アリスが向かおうとしていた洗濯室は、大きな窓がついており、日当たりは抜群。そして、その窓から訓練しているところが見えるのだ。
 窓が大きいのには理由がある。
 雨の日や風が強い日は外に洗濯物を干せないため、室内でも充分に乾くように窓辺に洗濯物が干せるようになっていた。
 勿論、アネットはすぐにその交換条件に飛びついた。

「良かったわね、アネット。バルコニーが補修中で」
「もう、マリアったら。バルコニーがすぐ傷んじゃうんだもの。仕方ないじゃない」

 洗濯室の横のドアを抜けると、外干し用の広いバルコニーがある。だが、一日の大半を洗濯物を干されているためか、通常のバルコニーに較べると傷みが激しい。現在のバルコニーになって二年だというが、また張替が必要になったようだ。
 困ったように言いながらも、アネットは笑顔でカゴを受け取り、洗濯室へ向かった。

「じゃあ、私も行ってきます」

 馬を見たいあまり、仕事で外に出ると、つい視線が厩舎に向いてしまう。
 だが、今日は乾いたシーツを運ぶため、堂々と厩舎に近づける。アリスは嬉しさで足取りが軽くなっていた。
 王宮の厩舎は、アリスの領地とは違い、人の住居だと言われても信じてしまいそうな程、造りが立派だった。餌置き場や用具置き場、獣医が詰める建物も隣接し、設備が整っている。

(すごいなぁ……)

 何度か騎馬隊の訓練や、運動のため馬が外に出されているのを見たが、締まった筋肉を持ち、光沢のある滑らかな毛艶の素晴らしい馬たちだった。
 厩舎に近づくと、馬の独特な匂いがする。アネットを始め同僚の多くは、この匂いが苦手なようだが、アリスは嬉しさでニヤニヤしてしまった。
 だが、今日は別の匂いも鼻をついた。その懐かしさを感じる匂いに視線を巡らすと、厩舎の裏にある木が目に入った。
 真っ青な実をいくつもぶら下げ、枝が重そうにしなっている。敷地内の植物は、全て綺麗に剪定されているのだが、これだけはあるがままの状態で立っていた。

(柿だわ! こんなにたくさん!)

 アリスがいた領地にも柿の木はたくさんあった。かなり渋みのある品種のため、食べれるように加工するのは実が赤くなってからだ。これは、まだ加工するには早い。もう数週間は必要だろう。だが、若く青い実も、とても便利なものだ。よく見てみようと近づくと、声をかけられた。

「運んでくれたのかい」
「あ、はい」

 話しかけてきたのは、顔なじみとなった馬の世話人をしているマルセルだった。
 柔らかそうなリネンのシャツに大き目のズボンをサスペンダーで吊っている。こなれて色が抜けたベストは、あちこちに干し草がついていた。こんな風貌だが、騎馬隊の元隊長だそうで、王宮勤め人の中でも位はかなり高い。本人は騎馬隊引退後も、馬が好きだし慣れているということで、好んで世話人をやっているそうだ。

「すまないが、今干し草を扱っててね。こんな状態だから、君がそのまま中に持ってきてくれるか」
「はい!」

 シーツを両手で抱えたまま、厩舎の前を通ると、開いていた窓から馬が見えた。
 このシーツは、毎日の訓練が終わり、馬の身体を洗った後拭きあげるために使う。そのため、毎日結構な量を洗濯するのだ。

「君、馬が好きなのかい?」
「はい! 領地にいた時は、よく世話をしていました。出産を手伝ったこともあります」
「そりゃ凄い。訓練所の女の子たちは、馬が怖いのかあまり寄り付かないんだ。騎馬隊に属している馬は気性が荒い子が多いから、世話は頼めんが、これから厩舎の用事は君が来てくれるか」

 願ってもない申し出だった。
 アリスは勿論、二つ返事でそれを受けた。それを受けてマルセルは「君は面白い子だな」と笑う。また面白いって言われた……と、アリスははにかんだ。
 面白い、と言われた時は、一体“なに”が面白いのかと不思議だったが、最近はアリスのことをきちんと見てくれているのだと、好意的に受け取るようになっていた。
 マルセルは、「君の上にも言っておこう」と約束までしてくれた。
 仕事を代わって良かった――! アリスが胸を躍らせ、戻ろうとした時、「そういえば」とマルセルが問いかけた。

「さっき、なにを見に行こうとしていたんだい?」
「――さっき……? あ、柿です! 見事な柿だなぁと思って」
「そうだろう。本当は切るという話もあったんだが、先代の妃殿下がとてもお好きだったそうで、そのままになっているんだ」
「美味しいですもんねえ」

 すると、マルセルは驚いたように目を丸くした。

「君は、調理方法を知っているのか」
「知っている、という程でもありませんが……」
「当時の料理人も辞めてしまった。この柿はかなり渋みが強くて、どうにもできずにこのままだ」

 なんと勿体ない。
 そう話すと、驚いたことにマルセルは好きなだけ採っていってもいいと言い出した。

「い、いいんですか!?」
「ああ。これも、私から上に言っておこう。完熟して柔らかくなると、鳥に食われるか、そのまま落ちるか……それだけだ。活用してくれるなら、柿も喜ぶだろう」

 柿が喜ぶかどうかは分からないが、いいと言ったのだから彼の気が変わらないうちに、快く受けるべきだろう。勿論、アリスはブンブンと力強く頷いた。

「ありがとうございます、マルセルさん!」
「次の休日にでも来るといい。私は大抵ここにいる。その時は梯子や鋏も用意してあげるから」
「はい!」

 アリスは来た時以上に足取り軽く、仕事に戻っていった。
 彼女の姿が建物の陰に入り見えなくなってから、マルセルの傍に長い影が近づいた。

「盗み聞きはいけませんなぁ、殿下」
「あなたのそんな楽し気な声が聞こえたら、気になるのは当たり前じゃないですか」

 細長い影が、マルセルのガッシリした影の隣に並ぶ。
 ふたりはしばし、並んで柿の木を見上げていた。
 先に沈黙を破ったのは、マルセルだった。

「美味いんだと」
「そのようですね」
「楽しみだなぁ」
「……楽しみって、あなた作ったら持ってこいなんて言ってないでしょう」
「んあ!? 俺、言ってなかったか!?」
「言ってませんよ。好きなだけ採っていけ、としか言ってません」

 その言葉に、「しまったぁ~!」とマルセルは両手で頭をわしゃわしゃと掻いた。
 それも伝えたつもりでいたのだ。
 先代の妃殿下の姿を思い出し、あの方が好んで食べていた味がどんなものか、知りたかった。

「あ、待てよ。採りに来た時に言っても間に合うじゃないか。梯子と鋏を用意してやるから、と伝えてある。なら、来た時は俺に声をかけなきゃならんからな」
「落馬で骨折した足で、梯子とか……ご冗談でしょう?」

 ラウルはチラリとマルセルの左足を見る。
 マルセルが騎馬隊を引退したのは、落馬による骨折が原因だった。今は完治したが、治療には何年もかかった。注意して見なければ分からない程度だが、今も歩く時に少し引きずる癖がある。無意識に、左足を庇っているのだ。完治したとはいえ、昔と同じようには動かない。筋力も衰えたし、できないことも増えた。だから、引退した。だが、それを簡単に認めたくないというのが軍人心というものではないだろうか。マルセルは「んなモン、治ってる」と、吐き捨てるように言った。

「今回は、俺に譲ってください」
「あ?」
「邪魔すると、馬に蹴られるって言うでしょう」

 ラウルの言わんとすることがわかり、マルセルの顔がニヤリと歪む。

「騎馬隊の元隊長が、馬に蹴られるわけねーだろ」
「落馬はしましたけどね」
「うるせえ。――仕方ねえから、今回は譲っておく。けど、俺が食いたいって言ってたと、ちゃーんと伝えろよ?」
「はいはい。わかりましたよ」

 この硬く丸い青い実が、どんなものに化けるのだろう?
 彼女には見えているらしい景色が、ふたりにはまったく想像がつかない。けれど、それがたまらなくワクワクさせられる。

「――彼女、面白いでしょう?」
「ああ。面白いな。馬に蹴られてもいいかな、って思う位は」
「……邪魔しないでくださいね」

 マルセルはなにも応えず、ただ肩をすくめ、厩舎に戻って行った。少し、ほんの少し左足を引きずりながら。
 ラウルはそれをじっと見ていた。その目はとても優しい。あんな口を聞いたが、無理をしないかと心配しているのだ。勿論、マルセルにはそれもお見通しだろう。

 マルセル・ブロンダン――騎馬隊の元隊長として、王宮に勤める誰もが知る人物である。
 だが、本当の顔はそれだけではない。
 その昔、遠征中に現国王ローランの命を救い窮地を脱しただけでなく、ひとり戻って相手側を全滅させた、鬼の騎馬隊長である。
 帰国後、名誉騎士の称号を与えられたが、本人は堅苦しいことが嫌いで、その事実を隠している。そんな人柄と、名誉や地位を重んじない考えから、ローランは彼を兄と慕った。そして、幼い頃から周りにちやほやされ甘やかされていたラウルを預けるほど、信頼していた。
 小汚い気楽な恰好で、毎日馬の世話に勤しんでいるが、国王陛下とラウルが意見に耳を傾ける人物であり、ふたりが家族のように大切にしている人物なのである。ただ、それを知るのは、ごく僅かの人間のみであった。

 その後のふたりのやり取りなど、なにも知らないアリスは、上機嫌で仕事を終えた。
 次の休みは、三日後だ。
 そんなに早く行っていいものか、少し悩んだけれど、青い実のうちに採れたら別の使い方もできる。
 アリスは三日後を楽しみに、早い時間に眠りについた。
< 4 / 33 >

この作品をシェア

pagetop