次期国王は独占欲を我慢できない
なんだか、皆の雰囲気が違う。
どこかソワソワしているような、浮足立っているような、そんなざわついた空気がするのだ。
「なに? なにかあるの?」
「ああ、そうか。アリスは初めてだものね。ジョーヌの晩月に、隊の入れ替えがあるのよ」
「隊の……入れ替え?」
この国の騎士団は、四つの隊に分かれており、それぞれの隊には、ヴェール・アジュール・ジョーヌ・ブランという季節の名前がつけられており、それぞれ緑・青・黄・白が隊のカラーになっている。他にも王族の警護を担当する、ヴィオレという紫が隊のカラーである近衛騎士もあるが、この四つの隊の成績優秀者だけが、参加することができる。
四つの隊はそれぞれが、湾岸警備・国境警備・王宮警備・訓練所に振り分けられており、ジョーヌの晩月に配置を入れ替えるのだと言う。
ちなみに、訓練所の隊は楽に思われがちだが、他の三つの隊に負傷者などが出た際、すぐに人員を補充できるようにするためと、新人の騎士を教育する役割もあり、意外と忙しいのだそうだ。
今、訓練所に振り分けられているのは、ジョーヌ隊で、次に訓練所に配置されるのはアジュール隊だそうだ。
入れ替えるとはいえ、一気に移動するわけではない。湾岸警備と国境警備、王宮警備は不在の期間が一時でもあってはいけない。そのため、まずは訓練所の隊が王宮警備に入り引継ぎをおこなうと、王宮警備だった隊が湾岸警備につく。そして、湾岸警備が国境警備につき引継ぎをおこなった後、国境警備だった隊が訓練所にやって来るのだ。
移動距離が短い経路を使いおこなわれる入れ替えは、全て終わるのに二十日ほどかかる。ということは、二十日程訓練所に騎士団は不在ということだ。だが、これで訓練所勤めのメイドたちの仕事が楽になるわけではない。この期間を使い、訓練所を徹底的に掃除し、騎士団が使用していた宿舎の部屋も全て掃除し、リネン類も新しいものと取り換え、次の隊の入居に備えるのだ。
「アジュール隊はこの一年、国境警備についていた隊よ。その前は湾岸警備だったから、王宮に戻るのは久しぶりね」
「――アジュール……」
「そうよ~。この隊は、数ある騎士団の中でも、人気のある騎士が多い隊なの」
そこに突然、興奮気味のアネットが割り込んできた。
「特に、太陽のように煌めく蜂蜜色の金髪と、澄んだ空と同じ明るい青の瞳を持つリュカ様よ! 身体の大きな男たちが多い騎士団で、彼は引き締まったしなやかな肉体を持ちながらも、穏やかな笑顔を絶やさない天使のような面もおありなの。まさに芸術品のようなお人よ!」
「あ、アネットさん、ラウル殿下を追いかけていたのではないのですか?」
「さすがに殿下とお近づきになれるとは思っていないもの。素敵だな~とは思うけどね。私にとっては、手の届かない高嶺の花よ。見れるだけで嬉しいの」
「あらあら、アネットったら。リュカ様には近づけるって言いたいの? 言っておくけれど、彼はまだ十九歳なのに隊の中でも頭角を現していて、既に中隊長を任せられてるそうよ。将来はヴィオレだろうって話。それに、同じ年だからかラウル殿下ともお親しいし、リュカ様も充分高嶺の花よ」
「いやぁぁぁ。そんなこと言わないで! 夢も楽しみもなくなっちゃう!」
一体、マリアはどこからそんなに情報を仕入れてくるのだろう。彼女の情報収集能力は、相当なものだ。それと……薄々気づいてはいたが、どうやらアネットはミーハーな性格らしい。
「アリス、アネットが言うことは大げさじゃないわよ。皆の雰囲気を見てもわかるでしょ? この大半がリュカ様狙いでこんなにソワソワしているのよ。恋とはまだ全然知りませ~んって感じで社交界にも顔を出さないアリスも、ちょっと意識しちゃうかもしれないわ」
「そう、なんだ……。楽しみにしておくわ」
「でも、絶対渡さないからね!」
なぜか、アネットにそう牽制され、アリスは慌てて手を振って否定した。
「いやいや、ないですって。私がそんなことになるなんて、あり得ませんから!」
「わかんないわよ~? アリスってすごく面白いから、案外気に入っちゃうかも」
それはない。あり得ない。本当に。
アリスは心の中で、そう断言した。
* * *
ジョーヌ晩月の話題が出るわけだ。
厩舎の裏にある柿の実は、すっかり色づいていた。
慌てて指で触れるが、まだ実はしっかりと硬い。指で少し押しても、窪むことはなかった。
良かった、間に合った――アリスはにっこりと微笑んだ。
「どうだ? 良さそうか?」
「うん。今がちょうど収穫に良さそう」
「じゃあ、やろうか」
カゴにつけた紐を素早く腰に巻くのは、前回と同じ黒尽くめの青年だ。
会うのはその時以来だが、「次も手伝う」と言ったのは本気だったらしく、今回も準備万端で待ち構えていた。
「今日も木の上は俺がやるから」
「う、うん。お願いします」
素直に頷き、アリスも鋏を握った。
ふたりともすぐに収穫に熱中し、辺りにはパチン、パチン、と乾いた金属の音が響く。
手の届く高さとはいえ、ずっと腕を上げていると手が痛くなってしまう。両手を下ろし、フゥ、と息をつくと、頭上から声が降って来た。
「疲れたか?」
「少し。あなたは疲れてないの?」
「俺はまだ大丈夫だよ」
やはりかなり鍛えているのだろうか。見上げた先では、大きな枝にまたがって、次々と手際よく採っていく。
今日は前髪で目を隠すこともなく、神秘的な紫の瞳が陽の光にさらされている。
太陽をいっぱい浴びた外側の実は採り終えてしまったため、身を屈めて木の内側に入る。すると、外からは分からなかったが、内側にもかなり実っていた。日があまり当たらないからか、少し色は悪いが、これでも充分だろう。アリスはいそいそと鋏を入れた。
それにしても、彼は本当に不思議な人だ。
アリスは休日もこうしてマルセルのところに来るくらいで、自慢できるほど行動範囲が狭い。だから、この広大な王宮の敷地内で会ったことのない人は、たくさんいる。それでも、この青年のような身なりの人は見たことがない。それに、アリスが訪れる日、時間に合わせて来れる自由さは、一体なんなのだろう。第一、これまでに二度も名前を聞きそびれている。
今日こそは、名前を聞こう。そう心に決めて見上げたが、木の上の青年はいない。代わりに視界に入ったのは、見事な大きさの柿だった。
手を伸ばすが、届かない。背伸びしても、アリスの手は空を掻くばかりだ。
近くの枝を掴み、よいしょっと幹が反った部分に足を引っかける。登るわけではない。ただ、ほんの少し高い位置の実が採りたいだけだ。それなのに、引っかけた足に体重をかけ、手にした枝を引っ張ったら、簡単に枝が折れてしまった。
「――えっ」
思い切り引っ張った勢いそのまま、アリスの身体は大きく後ろに傾いた。
幹からずり落ちた足が、地面についてたたらを踏む。止まることもできず、後ろに倒れそうになって、アリスはギュッと目を瞑った。だが、その瞬間アリスの身体は柔らかく包まれていた。
目を開けると、目の前には自分を包み込むかのように枝が放射線状に延びている。その向こうには青い空があった。
(そうだ、枝が折れて、私……)
転んだことは理解できたが、背中に感じる暖かさと、肩から胸にかけてまわされている逞しい腕が、理解できない。
(こ、これは、その……つまり……)
顔に熱が集中し始めた時、耳元で「大丈夫か」と声が聞こえ、熱は一気に全身に回った。
「だ、だだだだだだいじょうぶですっ」
「びっくりさせないでくれ」
困ったようにつかれたため息が、アリスの頬を撫でた。
「ああああ、あのっ。もう本当に大丈夫、なのでっ」
「……ああ」
青年がようやく手を緩めると、アリスは慌てて脱出した。だが、意識してしまった温もりや力強さはすぐには消えてくれない。
照れ隠しもあって、慌てて立ち上がり、平気だと言おうとしたが、左足に違和感を感じ、しゃがみ込む。
「おい! 痛むのか!?」
「す、少し」
「見せてみろ」
「う、きゃっ」
青年はアリスが履いていたブーツを素早く脱がせると、足首をそっとさすった。
指を移動させ、軽く押すそれを何度か繰り返すと、足首の内側に触れた時に傷みが走った。
「っ!!」
声には出さなかったが、足に力が入ったので、青年にもわかったらしい。
「捻ったようだな。――送るよ」
「大丈夫です! 全然、腫れてないし……」
「ダメだ! 足のケガを軽くみるんじゃない。ちゃんと、診てもらうんだ。柿なら、俺が戻って来て採っておくから。いいな?」
青年の声の迫力に、アリスは頷くしかなかった。
* * *
アリスの足は大したことはなく、滑り落ちそうになって変な力が入っただけのようで、数日後には普通に仕事ができるようになった。だが、事故とはいえ抱きしめられた感触や、耳元で聞いてしまった低い声がふとした時に思い出され、恥ずかしさに顔から火が出そうになる。しかも、また青年の名前を聞きそびれてしまった。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に空の隊がやって来る日になった。
昨日到着したという隊は、まずは王宮に報告に出向く。
王宮では、陛下ご自身が出迎えられ、騎士ひとりひとりにお声をかけられる。
一年間、国境を守るという大きな任務を終えてきたのだ。中でも優秀な働きをした者は階級が上がり、そこで近衛騎士(ヴィオレ)に抜擢される者もいれば、隊を退く者もいる。人数が減った隊は、訓練所で新人を加えて、また一年かけて新体制の隊を作り上げる。
噂のリュカは、階級をひとつ上げ、ヴィオレに一層近づいたと早速食堂で噂になっていた。
「もう、一足飛びにヴィオレになればいいのに……」
アリスが小さく呟いた言葉は、リュカ達を待つざわついた空気の中では、誰も気に留める者はいない。
「いらしたわよ!」
「おかえりなさ~い!」
久しぶりに訓練所に戻って来た面々は、どこかホッとした様子だ。
訓練所もそれなりに忙しいとはいえ、国境警備は所謂前線だ。気を緩めることなどできなかっただろう。
部屋に入ってきた騎士を見るなり、泣き出して抱き付く女性もいた。
騎士とは、恋人をも残して、遠く国境まで行かなくてはならないのだ。これからは最低でも一年、一緒に過ごすことができる。ようやく訪れたこの瞬間に、感極まってしまったのだろう。
だが、アリスはそんな光景に浸ることもできずにいた。
一際大柄な騎士の後ろから、煌めく金髪が見えて、アリスの心臓が飛び跳ねた。
「きゃあ!リュカ様!」
「益々凛々しくなられたわ!」
「国境警備は大変でしたでしょう?」
リュカは、瞬く間に女性たちに取り囲まれてしまった。
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、リュカは笑顔で返事をする。その微笑みに、また周囲の女性たちは声を上げた。
揺れるだけで光を反射する、蜂蜜色の豊かな髪に、快晴を思わせる明るい瞳。
高く形のいい鼻に、口角が上がった薄い唇。健康的な色に焼けた肌から除く白い歯までが眩しい。
多くの女性がそんな彼の一挙手一投足に見惚れ、歓声をあげるが、アリスにとってそれは、見慣れたものだった。
リュカ・フォンタニエ
彼こそが、自分を可愛いと思っていた幼いアリスに、本当の美というものを知らしめた人物で、兄アルマンの次男であった。
――つまり、アリスにとっては甥である。
どこかソワソワしているような、浮足立っているような、そんなざわついた空気がするのだ。
「なに? なにかあるの?」
「ああ、そうか。アリスは初めてだものね。ジョーヌの晩月に、隊の入れ替えがあるのよ」
「隊の……入れ替え?」
この国の騎士団は、四つの隊に分かれており、それぞれの隊には、ヴェール・アジュール・ジョーヌ・ブランという季節の名前がつけられており、それぞれ緑・青・黄・白が隊のカラーになっている。他にも王族の警護を担当する、ヴィオレという紫が隊のカラーである近衛騎士もあるが、この四つの隊の成績優秀者だけが、参加することができる。
四つの隊はそれぞれが、湾岸警備・国境警備・王宮警備・訓練所に振り分けられており、ジョーヌの晩月に配置を入れ替えるのだと言う。
ちなみに、訓練所の隊は楽に思われがちだが、他の三つの隊に負傷者などが出た際、すぐに人員を補充できるようにするためと、新人の騎士を教育する役割もあり、意外と忙しいのだそうだ。
今、訓練所に振り分けられているのは、ジョーヌ隊で、次に訓練所に配置されるのはアジュール隊だそうだ。
入れ替えるとはいえ、一気に移動するわけではない。湾岸警備と国境警備、王宮警備は不在の期間が一時でもあってはいけない。そのため、まずは訓練所の隊が王宮警備に入り引継ぎをおこなうと、王宮警備だった隊が湾岸警備につく。そして、湾岸警備が国境警備につき引継ぎをおこなった後、国境警備だった隊が訓練所にやって来るのだ。
移動距離が短い経路を使いおこなわれる入れ替えは、全て終わるのに二十日ほどかかる。ということは、二十日程訓練所に騎士団は不在ということだ。だが、これで訓練所勤めのメイドたちの仕事が楽になるわけではない。この期間を使い、訓練所を徹底的に掃除し、騎士団が使用していた宿舎の部屋も全て掃除し、リネン類も新しいものと取り換え、次の隊の入居に備えるのだ。
「アジュール隊はこの一年、国境警備についていた隊よ。その前は湾岸警備だったから、王宮に戻るのは久しぶりね」
「――アジュール……」
「そうよ~。この隊は、数ある騎士団の中でも、人気のある騎士が多い隊なの」
そこに突然、興奮気味のアネットが割り込んできた。
「特に、太陽のように煌めく蜂蜜色の金髪と、澄んだ空と同じ明るい青の瞳を持つリュカ様よ! 身体の大きな男たちが多い騎士団で、彼は引き締まったしなやかな肉体を持ちながらも、穏やかな笑顔を絶やさない天使のような面もおありなの。まさに芸術品のようなお人よ!」
「あ、アネットさん、ラウル殿下を追いかけていたのではないのですか?」
「さすがに殿下とお近づきになれるとは思っていないもの。素敵だな~とは思うけどね。私にとっては、手の届かない高嶺の花よ。見れるだけで嬉しいの」
「あらあら、アネットったら。リュカ様には近づけるって言いたいの? 言っておくけれど、彼はまだ十九歳なのに隊の中でも頭角を現していて、既に中隊長を任せられてるそうよ。将来はヴィオレだろうって話。それに、同じ年だからかラウル殿下ともお親しいし、リュカ様も充分高嶺の花よ」
「いやぁぁぁ。そんなこと言わないで! 夢も楽しみもなくなっちゃう!」
一体、マリアはどこからそんなに情報を仕入れてくるのだろう。彼女の情報収集能力は、相当なものだ。それと……薄々気づいてはいたが、どうやらアネットはミーハーな性格らしい。
「アリス、アネットが言うことは大げさじゃないわよ。皆の雰囲気を見てもわかるでしょ? この大半がリュカ様狙いでこんなにソワソワしているのよ。恋とはまだ全然知りませ~んって感じで社交界にも顔を出さないアリスも、ちょっと意識しちゃうかもしれないわ」
「そう、なんだ……。楽しみにしておくわ」
「でも、絶対渡さないからね!」
なぜか、アネットにそう牽制され、アリスは慌てて手を振って否定した。
「いやいや、ないですって。私がそんなことになるなんて、あり得ませんから!」
「わかんないわよ~? アリスってすごく面白いから、案外気に入っちゃうかも」
それはない。あり得ない。本当に。
アリスは心の中で、そう断言した。
* * *
ジョーヌ晩月の話題が出るわけだ。
厩舎の裏にある柿の実は、すっかり色づいていた。
慌てて指で触れるが、まだ実はしっかりと硬い。指で少し押しても、窪むことはなかった。
良かった、間に合った――アリスはにっこりと微笑んだ。
「どうだ? 良さそうか?」
「うん。今がちょうど収穫に良さそう」
「じゃあ、やろうか」
カゴにつけた紐を素早く腰に巻くのは、前回と同じ黒尽くめの青年だ。
会うのはその時以来だが、「次も手伝う」と言ったのは本気だったらしく、今回も準備万端で待ち構えていた。
「今日も木の上は俺がやるから」
「う、うん。お願いします」
素直に頷き、アリスも鋏を握った。
ふたりともすぐに収穫に熱中し、辺りにはパチン、パチン、と乾いた金属の音が響く。
手の届く高さとはいえ、ずっと腕を上げていると手が痛くなってしまう。両手を下ろし、フゥ、と息をつくと、頭上から声が降って来た。
「疲れたか?」
「少し。あなたは疲れてないの?」
「俺はまだ大丈夫だよ」
やはりかなり鍛えているのだろうか。見上げた先では、大きな枝にまたがって、次々と手際よく採っていく。
今日は前髪で目を隠すこともなく、神秘的な紫の瞳が陽の光にさらされている。
太陽をいっぱい浴びた外側の実は採り終えてしまったため、身を屈めて木の内側に入る。すると、外からは分からなかったが、内側にもかなり実っていた。日があまり当たらないからか、少し色は悪いが、これでも充分だろう。アリスはいそいそと鋏を入れた。
それにしても、彼は本当に不思議な人だ。
アリスは休日もこうしてマルセルのところに来るくらいで、自慢できるほど行動範囲が狭い。だから、この広大な王宮の敷地内で会ったことのない人は、たくさんいる。それでも、この青年のような身なりの人は見たことがない。それに、アリスが訪れる日、時間に合わせて来れる自由さは、一体なんなのだろう。第一、これまでに二度も名前を聞きそびれている。
今日こそは、名前を聞こう。そう心に決めて見上げたが、木の上の青年はいない。代わりに視界に入ったのは、見事な大きさの柿だった。
手を伸ばすが、届かない。背伸びしても、アリスの手は空を掻くばかりだ。
近くの枝を掴み、よいしょっと幹が反った部分に足を引っかける。登るわけではない。ただ、ほんの少し高い位置の実が採りたいだけだ。それなのに、引っかけた足に体重をかけ、手にした枝を引っ張ったら、簡単に枝が折れてしまった。
「――えっ」
思い切り引っ張った勢いそのまま、アリスの身体は大きく後ろに傾いた。
幹からずり落ちた足が、地面についてたたらを踏む。止まることもできず、後ろに倒れそうになって、アリスはギュッと目を瞑った。だが、その瞬間アリスの身体は柔らかく包まれていた。
目を開けると、目の前には自分を包み込むかのように枝が放射線状に延びている。その向こうには青い空があった。
(そうだ、枝が折れて、私……)
転んだことは理解できたが、背中に感じる暖かさと、肩から胸にかけてまわされている逞しい腕が、理解できない。
(こ、これは、その……つまり……)
顔に熱が集中し始めた時、耳元で「大丈夫か」と声が聞こえ、熱は一気に全身に回った。
「だ、だだだだだだいじょうぶですっ」
「びっくりさせないでくれ」
困ったようにつかれたため息が、アリスの頬を撫でた。
「ああああ、あのっ。もう本当に大丈夫、なのでっ」
「……ああ」
青年がようやく手を緩めると、アリスは慌てて脱出した。だが、意識してしまった温もりや力強さはすぐには消えてくれない。
照れ隠しもあって、慌てて立ち上がり、平気だと言おうとしたが、左足に違和感を感じ、しゃがみ込む。
「おい! 痛むのか!?」
「す、少し」
「見せてみろ」
「う、きゃっ」
青年はアリスが履いていたブーツを素早く脱がせると、足首をそっとさすった。
指を移動させ、軽く押すそれを何度か繰り返すと、足首の内側に触れた時に傷みが走った。
「っ!!」
声には出さなかったが、足に力が入ったので、青年にもわかったらしい。
「捻ったようだな。――送るよ」
「大丈夫です! 全然、腫れてないし……」
「ダメだ! 足のケガを軽くみるんじゃない。ちゃんと、診てもらうんだ。柿なら、俺が戻って来て採っておくから。いいな?」
青年の声の迫力に、アリスは頷くしかなかった。
* * *
アリスの足は大したことはなく、滑り落ちそうになって変な力が入っただけのようで、数日後には普通に仕事ができるようになった。だが、事故とはいえ抱きしめられた感触や、耳元で聞いてしまった低い声がふとした時に思い出され、恥ずかしさに顔から火が出そうになる。しかも、また青年の名前を聞きそびれてしまった。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に空の隊がやって来る日になった。
昨日到着したという隊は、まずは王宮に報告に出向く。
王宮では、陛下ご自身が出迎えられ、騎士ひとりひとりにお声をかけられる。
一年間、国境を守るという大きな任務を終えてきたのだ。中でも優秀な働きをした者は階級が上がり、そこで近衛騎士(ヴィオレ)に抜擢される者もいれば、隊を退く者もいる。人数が減った隊は、訓練所で新人を加えて、また一年かけて新体制の隊を作り上げる。
噂のリュカは、階級をひとつ上げ、ヴィオレに一層近づいたと早速食堂で噂になっていた。
「もう、一足飛びにヴィオレになればいいのに……」
アリスが小さく呟いた言葉は、リュカ達を待つざわついた空気の中では、誰も気に留める者はいない。
「いらしたわよ!」
「おかえりなさ~い!」
久しぶりに訓練所に戻って来た面々は、どこかホッとした様子だ。
訓練所もそれなりに忙しいとはいえ、国境警備は所謂前線だ。気を緩めることなどできなかっただろう。
部屋に入ってきた騎士を見るなり、泣き出して抱き付く女性もいた。
騎士とは、恋人をも残して、遠く国境まで行かなくてはならないのだ。これからは最低でも一年、一緒に過ごすことができる。ようやく訪れたこの瞬間に、感極まってしまったのだろう。
だが、アリスはそんな光景に浸ることもできずにいた。
一際大柄な騎士の後ろから、煌めく金髪が見えて、アリスの心臓が飛び跳ねた。
「きゃあ!リュカ様!」
「益々凛々しくなられたわ!」
「国境警備は大変でしたでしょう?」
リュカは、瞬く間に女性たちに取り囲まれてしまった。
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、リュカは笑顔で返事をする。その微笑みに、また周囲の女性たちは声を上げた。
揺れるだけで光を反射する、蜂蜜色の豊かな髪に、快晴を思わせる明るい瞳。
高く形のいい鼻に、口角が上がった薄い唇。健康的な色に焼けた肌から除く白い歯までが眩しい。
多くの女性がそんな彼の一挙手一投足に見惚れ、歓声をあげるが、アリスにとってそれは、見慣れたものだった。
リュカ・フォンタニエ
彼こそが、自分を可愛いと思っていた幼いアリスに、本当の美というものを知らしめた人物で、兄アルマンの次男であった。
――つまり、アリスにとっては甥である。