次期国王は独占欲を我慢できない
 アジュール隊が訓練所初日という日の朝早く、アリスは南棟のとある部屋のそばに潜んでいた。
 五時の鐘が鳴らされ、身支度を終えた騎士たちが次々部屋から出て、食堂に向かう。少し遅れて見張っていた部屋のドアが開くと、アリスは素早く部屋の中に押し入った。

「わっ……、ナニ……って、アリス!?」
「久しぶり、リュカ」
「アリスだ! 噂には聞いてたけど、ほんとに王宮勤めしてるとは思わなかった!」

 寝ぼけ眼が一転してパッチリと開く。全く……これでよく騎士をやっているものだ。しかも、入隊してものの三年で中隊の隊長になったと聞いたが、本当のことだろうか? 目の前のリュカを見上げ、アリスは首を傾げた。
 入隊して三年ではあるが、初年度は訓練所で基礎訓練から始まる。そう考えると、中隊長に上り詰めるまで、実質二年だ。

「そうね、なにかの間違いだったんだけど、王宮勤めになったのよ。今は騎士訓練所で働いてるわ」
「え? 昨日食堂にいた? 見なかったけど」

 不満げに口をとがらせるリュカは、昨日盛大な出迎えを受けた食堂での彼と印象がまるで違う。
 凛々しい眼差しに微笑みをたたえた、あの金髪の美青年はいったいどこに行ってしまったのだろう。

「……いたわ。ちょっと隠れてただけ」
「なんで隠れるんだよ! 僕はアリスがいたらすごく嬉しいのに!」

 ――だから隠れたの。なんて言おうものなら、本気で泣かれそうだったので、止めた。

 小さな頃――そう、アリスがまだ家族や領民の言う「可愛い、可愛い」を本気で信じていた頃の話だ。
 兄アルマンの次男であるリュカは身体が弱く、殆どの時間を男爵家の自室で過ごしていた。
 リュカを疲れさせてはいけないと、ひとつ年上の兄レオンはリュカとはあまり会わせてもらえなかった。
 アリスがリュカに初めてあったのは、アリスが五歳になり、そろそろ家庭教師をつけようか、と話が出た頃だった。八歳になり、少し体力のついたリュカもまた、同年代に少し遅れて勉強を始めることになった。
 既にレオンは四歳の頃から家庭教師についてもらい、勉強をしていた。そこで、アルマンとオルガが考えたのは、一時的にリュカを領地の両親の元に預け、空気の良い自然豊かな田舎で勉強をさせよう、ということだった。それまでいつもひとりで、会うのは両親や使用人ばかり。リュカには同世代に対する耐性もなかった。友達、という概念もなかった。
 そんな彼が、突然三歳年下の快活で物怖じしない女の子に会ったらどうなるか――。アルマンもオルガも、そしてドミニクもロクサーヌも心配した。だが、それは杞憂に終わった。とても懐いてしまったのだ。リュカが、である。自分よりも小さいのに、たくさんのことを知っている。大人たちにもハキハキと話し、リュカがまごまごしていても決して笑うことなく、小さな手を差し伸べて「だいじょーぶよー」と言ってくれた。
 結果、リュカは、すっかりアリスが大好きになってしまったのだ。
 アリスと同じ目線で森が見たくて、鳥の名前を覚えた。
 アリスと一緒に庭を散歩したくて、花の名前を覚えた。
 アリスと同じものが食べたくて、嫌いなものも我慢して食べた。
 アリスが大好きな馬に乗れるように、運動も頑張った。
 か細い声で話す表情の乏しいはかなげな美少年は、社交界デビューする頃には、身体も健康になってなんでもできる完璧超人になっていたのである。
 ただ、完璧超人にも弱点はある。それが、アリスだった。
 アリスと離れたくないとごねだしたのである。困り果てたアルマンは、アリスに口添えを頼み、騎士団の入団試験を受けさせた。
 騎士になれば、湾岸警備や国境警備など、王都を離れる期間が長い。同年代がたくさんいる騎士団に入れば、自然とアリスへの依存は薄くなると思っていたのだ。当然、アリスもそう思っていた。だが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。

 あっという間に腕の中に閉じ込められ、アリスはもがもがと抗議するが、やたら逞しくなった胸板に押し付けられ、うまく話せない。
 あまり長く話していられないのに。じたばたと抵抗し、アリスはやっと解放された。

「ねえ、みんなの前でこういうこと、しちゃダメだよ?」
「わかってるよ。でも久しぶりだから、嬉しくて」

 仕方ないなぁ……と、結局はリュカの抱擁を受け止め、なだめるように背中を優しく叩いた。
 なんだかんだ、アリスもまたリュカには甘いのだ。

「すごいじゃない。中隊長なんて」
「すごくないよ。とにかく、近衛兵になったら一年ごとの異動がなくなるから」

 まさかそんな理由で頑張っているとは、である。なんともリュカらしい答えだった。緩くなった腕の中でふふっと笑いが漏れる。

「なんで笑うの。リュカかっこよくなったからドキドキする~とか、ないの?」
「ん~、リュカとはないなぁ」

 すると、急に腕が解かれ、肘をぐっと掴まれる。
 アリスが驚いてリュカを見上げると、不機嫌そうな顔が見下ろしていた。

「なに?どうしたの?」
「リュカ“とは”?……アリス、恋人ができたの?」
「はぁ?ないない!一体どうしてそんな話になるのよ」

 王宮勤めを始めたものの、夜会やお茶会など、華やかな場には出たことがない。そんなアリスに出会いなどあるはずが……と思いかけて、ふとあの青年の姿を思い出した。

(なんであの人のことを思い出すのよ……名前も知らないのに)

 慌てて頭の中で打ち消すが、一度登場するとなかなか消えてくれない。そうなると、やっと平常心に戻ったのに、転んだ時に抱きしめられたことや、その時に感じた温もりや感触までもを思い出し、顔に熱がこもる。

「ない、ないないないない」

 そんなアリスの変化にリュカが気が付かないはずもなく、目が細められる。
 快晴の空のように爽やかな青い瞳も、機嫌が悪そうに細めると、冷たく見えるのは何故だろう。

「今、誰か特定の人間を思い浮かべたよね?」
「ちょっと、今はそういう話じゃなくて!リュカにお願いがあるのよ」
「お願い?どうしようかな。せっかくの嬉しい再会なのに、アリスってば僕を困らせることばかり言うからなぁ」
「なんでよ。――あのね、私がリュカの、その……叔母だっていうこと、内緒にして欲しいの」

 叔母、と言うのに少し躊躇したアリスだったが、それもそうだろう。
 年上の甥がいるというのは、自分がなんとも老けてしまったようで、アリスはこの“叔母”という言葉が大嫌いだった。

「内緒に?でも、名字で分かる話じゃないか」
「そう。だからね、遠縁とでも言ってくれないかしら。今の私の身元保証人はアルマン兄様で、あくまでも後見人という立場だし、別に変に思われないと思うの」

 アリスのお願いに、リュカはしばし考えた後、にっこりと笑った。

「いいよ、わかった。その話に乗ってあげる。アリスに変な虫がつかないように見張るには、そっちの方がいいかもしれないしね」
「なによ、変な虫って。おかしなことを言うわね。ホラ、じゃあ行きましょ。朝食の時間がなくなっちゃう」

 アリスは廊下の様子を確認すると、リュカにしっかり言い含めて先に部屋を出た。
 まったく。リュカが来ただけで、色々と気を使わなければいけなくなった。食堂に向かいながらそっとため息をつくが、アリスの顔は綻んでいる。それでも久しぶりにリュカに会うことができ、しかも想像以上に成長した姿を見れたのだ。やはり“叔母”としては、嬉しかった。


 * * *


「訓練所は隊の入れ替えで、このところ忙しかったようだが、これでやっと落ち着くな」

 アリスがシュルッシュルッと刃物の滑る音に集中していたら、後ろから声をかけられた。

「マルセルさん」
「さて、俺も手伝うよ」

 訓練所の仕事が休みの今日、アリスはマルセルのところで、収穫した柿の皮むきをしていた。
 当初は自分の部屋でやろうと思っていたのだが、その時足を痛めていたことと、思った以上に量が多かったこともあり、場所を貸すというマルセルの申し出に甘えることにしたのだ。

「いいんですか?」
「ああ。隊の入れ替えの時は馬も休息期間なんだ。手入れと簡単な運動だけだからな。明日あたりからまた変わるだろうが、そもそも俺は隠居じじいみたいなもんだから」

 冗談交じりに言うが、マルセルの身体は筋肉質でガッシリしており、余分な贅肉などもついていない。
 隠居のじじいなど、マルセルには縁のない言葉だった。

「すみません。ありがとうございます。思ったより多く収穫できたから、助かります」
「いいさ。俺もいい暇つぶしになる。それに、今日は他に手伝うヤツもいないしな」

 手にした柿がポロリと落ち、硬い床の上をコロコロと転がる。アリスは慌ててそれを追った。
 正直、今日来たらあの青年がいるのではないか、という思いがあったのだ。

(そうかぁ……。今日、来ないんだ……)

 どことなくしょんぼりしてしまったアリスを、マルセルがからかう。

「アイツが来ると思ってたのに、残念だったな」
「あっ」

 落とした柿を手に座り直したところで、また柿を落としてしまった。
 小さなことに動揺しているようで、なんだか悔しい。

「それは、別に……」

 モゴモゴと言い訳をしながらも、やはりそこには少し寂しさが含まれている。
 そんなアリスを見て、マルセルは苦笑した。
 こんなに素直で、ここでやっていけるのだろうか。アイツが誰だか知っても、変わらずにいられるだろうか。いい子だと思うからこそ、心配だった。

「――あの、マルセルさん」
「ん?」
「あの……。柿の収穫を手伝ってくれた人なんですけど……。あの人はどういう人なんでしょう?」

 まさかのド直球の質問に、マルセルも思わず笑みを漏らす。

「どういうって、どういうことだ?君は俺よりもアイツと話す時間が長かっただろう?」
「そうなんですけど、それぞれ担当を分けてひたすら柿を収穫してたから、実際は特に話とかはしてません」
「……なにやってるんだよ」

 思わず本音を呟いたが、アリスにはちゃんと聞こえなかったようだ。「なんです?」と聞き返されたが、マルセルは適当に流した。
 邪魔をするなというから、アリスが来る日に手伝いを譲ってやったというのに、ロクに話もしていないとか、あり得ないだろう。聞けば、ひたすら柿を採っていたというし、そのためにマルセルはぎっくり腰という不名誉な理由まで負わされたというのに。

「それで、タイミングを逃してしまって……。私、名前すら聞けてないんです。あの黒尽くめの服も、あんな服を着てる人、王宮で見たことありません。一体なんのお仕事をしてて、どんな人なんでしょうか?」
「ん~……。なあ、アリス。アイツを悪いヤツだと思うか?」
「それは……思いませんけど」
「そうか、ならいい。なあ、今の質問は、本人に聞くべきだ。そうだろう?アリスは自分の知らないところで、自分のことを説明されて、それがアリスの全てだと思われてもいいのか?」
「――良くない、です」

 アリスは、マルセルに聞いた自分がひどく卑怯なことをしている気がして、小さな声で「ごめんなさい」と言った。そんなアリスの頭に、マルセルは大きく分厚い手を乗せると、まるで小さな子にするようにそっと撫でた。

「だろ?俺から言えることは、ひとつだけだ。アイツの服装のことを話してたがな、うん、そうだな。あんな恰好をしているヤツは見たことがないだろうな。それには理由がある。つまり、人に知られてはならない仕事をしているってことだ」
「人に、知られてはならない?」
「そう。秘密の、大事な仕事をしている。だからな、あんな恰好をした人を見たなんて、誰にも言っちゃいけない。いいな?」

 秘密の、大事な仕事――。それは、密偵……だろうか?
 ハッとアリスが顔を上げる。それならば、色々なことが納得できる。
 黒尽くめの恰好も、名前を言わないことも、あまり見かけないことも――。
 アリスはマルセルの目を見て、しっかりと頷いた。

 全ての剥き終わると、柿を入れたカゴ屋外に持って行く。あえて残しておいた枝に器用にヒモを巻きつけ、タライに入れた湯の中に入れた。余り間を置かず、湯から取り出してマルセルが建物の長く突き出た屋根の下に吊る。全部吊り終わると、柿のカーテンができた。

「途中で食べちゃダメですよ。白い粉が吹いてからじゃないと、まだ渋いですからね」
「わかったわかった」

 マルセルが途中つまみ食いでもすると思っているのだろうか。アリスは同じことを何度か言うと、やっと帰路についた。そんなアリスの後ろ姿を見ながら、マルセルはひとりごちる。

「あ~あ、なんで俺がフォローしなきゃならないんだよ。……まあ、いいか。アリス可愛いからな」

 見送るマルセルの頭上には、柿がぶら下がっている。そっと手を伸ばしかけて、止めた。渋いのはやっぱり嫌だ。今日は止めておこう。もう一週間もしたら、いいんじゃないか――結局、つまみ食いをしないという選択は、マルセルにはないのだ。

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