涙、夏色に染まれ
 トイレを後にすると、その先は、子どもがあまり立ち入らなかったエリアだ。職員室があって、その奥に校長室があって、向かい側には保健室と放送室がある。

 普段の学校生活では、何度そこに入る機会があっただろう? でも、ほかの子どもがいない場面で、あたしはよくそこに出入りしていた。遅くまで一人で職員室に残っている父に届け物をしたり、ときには母に言われて、父を迎えに行ったりしたんだ。

 職員室と校長室と保健室だけ、冬には灯油ストーブが置かれていた。ストーブの上には、古めかしい大きなやかんが乗っかっていた。職員室は、そのお湯で淹れるお茶の匂いがほのかにしていた。
 大人が使う部屋にはストーブがあって、ほかの教室は暖房器具なんてなかった。それでも過ごせる程度には、島の冬は暖かかった。

 空っぽの校長室をのぞき込んで、良一がポツリとこぼした。
「初めて小近島に来た日に、あれは四月の半ばだったけど、おれ、この校長室で泣いたんだ。転校するたびに痛い目にあってきたし、慈愛院での生活がどうなるのか不安だったし。校長先生に、頑張れよって言われた瞬間、涙が出てきたんだよね」

 良一が特殊な家庭事情を抱えていたことは知っている。具体的に何があったのかはわからない。良一が話さない以上、こっちから聞いちゃいけないことだと、あたしたちも子どもながらに理解していた。

 あたしより半月遅れで真節小にやって来た良一は、汗ばむくらいに暖かい日だったにもかかわらず、寒くてたまらないかのように震えていた。「仲よくしましょう」という校長先生の言葉は、形式なんかじゃなく、もっと切々としていた。

 良一は振り返って淡く微笑んだ。
「校長先生は、おれが泣き止むまで待ってくれた。頭や肩に、ぽんぽんって、手を載せてくれたりしてね。その手のひらが本当に優しくて、何を言ってもらったのかは覚えてないんだけど、受け入れてもらってるって感じたのはよく覚えてる。嬉しかった」

 たぶん、そのときの良一は、初めは校長先生の手のひらにおびえただろう。良一にはあまり自覚がないようだったけれど、何気なく触れようとすると、良一のやせっぽちの体はビクッとこわばった。

 夏が近付いて、みんな、だんだん日焼けしていった。気温が上がっていくのにつられるみたいに、良一は震えなくなった。手のひらにビクビクしなくなった。そして、秋になって少しずつ肌寒くなっても、良一の温度は高いままだった。
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