にゃん子と寺子屋日記
あとがき1(31)
2020.12月18日(金)
人間の記憶というのは、どこへいってしまうのだろうと、よく思います。
諸行無常のこの世では、人間の細胞も1刹那ごとに入れ代わっていると言われています。
1刹那は75分の1秒と聞きました。
これまで、生まれてきた人々の途方もない記憶、それは全部「無」になるのだろうかと。
自分の感覚では、「無」ということは、あり得ない。「無」なら自分が存在したことも無になりはしないかと。多分、それは「カルマ」となって、どこかで蓄積されているのではないかと思います。
自分のしている何気ない行為が、あれ??何だか昔もこうしていたな~という微妙な感覚を持ったことはありませんか?
人間の脳は、一種の受信機のようなものだと聞いたことがあります。
つまり、ラジオ、テレビなどの周波数を受信する生きてる器械?と思えば納得できます。
なので、自分が愉しく暮らしたいと思えば、愉しい周波数に自分を合わせる日々の努力も必要です。余分な刺激的なものは見ないとか、聞かないとか、自分でシイナ(戒律)をつくるのが大事です。余りいろいろなものを見すぎ、聞きすぎ、考えすぎると脳はパンクしてしまうでしょう。
そして、いつのまにか都合のいいように洗脳されてしまいます。洗脳とは一種の依存です。
メディアが発達して、人々はいつの間にか、そのとてつもない情報に洗脳され、依存人間が増えています。

もっと、洗脳や依存から自由でいてほしいと思います。
私は、エネルギーがほしくなると、自然からもらうようにしています。
自然と関わることで、知らず知らずにエネルギーをもらえます。(+)人のエネルギーを奪う必要はないのです。

そして、もっと、自分の使うもの、食べるもの、着るものを大切に。なぜなら、それは全部命あるものからできているからです。地球のありとあらゆるものが命でできている以上、人間は他の命をいただいていかざるを得ないのです。安ければいいという単純なものではないと思います。
大切にすれば、大切にしたものから、今度は助けられます。ビニール袋1枚でも、雨の日には助けられます。
ちーちゃんとの出会いと暮らしと別れ、この記憶もどこかに保管されると思えば、悲しみも半減します。
ちーちゃんからもらったゆとりと時間を今度は違うところで、違った形で実現したいと思って、
一応、この日記はこれで「おわり」にします。
最後に、この日記を共有してくださる方へ、心よりの感謝を捧げます。
ありがとうございます。

出会いは県営のべランダの下

ベランダの下から上へ


管理人に追い立てられるように畑へ
愉しい畑暮らしでのみんなと猫のカフェ






再び県営へ



そして、別れ・・




   すべて記憶の中へ


< 31 / 41 >

この作品をシェア

pagetop