私の中におっさん(魔王)がいる。~花野井の章~

「で、例の物は?」
「ありますよ」

 弾むように言って、姪砂は鞄から巻物を取り出して鉄次に渡そうとした。鉄次が手を伸ばしかけたそのとき、姪砂はヒヤリとした。

 冷たい鉄の感覚を、背中が捉える。背筋をぞくぞくと悪寒が這い回る。振り返る暇なく、背後から発せられるのは、殺気だと分かった。

 姪砂がそれを認識したのと同時に、鉄次も姪砂の後ろの人物に気づいた。
 その者の静かな、鋭利な刃物のような殺気にも。

「あんた……」
「すみません。お姉さん、僕にもそれ、見せてもらえますか?」

 にこやかな口調で言ったその者は、鉄次の反対側に座っていた若者だった。
 姪砂より背の低い若者は、姪砂の肩に埋まってしまっている。被った傘だけが、姪砂から見えていた。

 その体つきからして、少年、少女、どちらかだ。
 座っていた時のかっこうからして少年のようだが、声は低いというほど低くはないので、性別の判断がつかない。

 クナイのような刃物を突きつけられている姪砂は、冷や汗をひとすじ流しながら、表情だけで鉄次に指示を仰いだ。

「お姉さん、良い匂いですね」

 驚いたように明朗に言った若者は、その舌の根が渇かないうちに姪砂の背中の服を引っ張って刃物により近づけた。

 ぐいっと肉に食い込まれた刃に、思わず悲鳴を上げそうになる。
 血がじんわりと滲んで、白い生地が赤く染まっていく。

「で、どうするんですか? 渡すんですか、渡さないんですか?」

 はっきりとした口調で、驚くほど冷たい声音を出した若者に、姪砂は屈しそうになった。
 巻物を持った震える手が若者へと動き出そうとしたとき、渡したらダメ! 鉄次はそう叫ぶべきだった。
 だが、鉄次にはそれが出来なかった。
 それをすれば、あっさりと姪砂は殺されるだろう。
 
 だが、その隙に巻物を手にする事は出来る。
 姪砂が切り裂かれる一瞬に、鉄次が手を伸ばして姪砂の手から奪い去れば良い。
 しかし、鉄次にはそうする事が出来なかった。

 どんなにハプニングを呼び込む困ったちゃんだろうと、仲間である事に変わりがなかったからだ。
 暗部としては失格だが、本来愛情深く、情け深い彼――もとい、彼女は、仲間を見捨てる事が出来なかった。

 そして、巻物は若者の手に渡った。
 だが、鉄次にも策がなかったわけじゃない。
 
 鉄次は暗部に入隊する前、先の大戦で腕を鳴らした猛者の一人でもある。
 人質のいない若者を捻るくらい、わけはない。

 そう考えていたが、若者は逃げるでもなく、殺すでもなく、巻物をその場で開いて読み出した。
 刃物を持った片手を姪砂の背中に食い込ませたまま、もう片方の手で、巻物を開いて、数秒で読み終えた若者は、捉えていた姪砂を突き飛ばし、唖然としている鉄次に開いたままの巻物を、放り投げた。

 若者の意図を読み取れない二人を余所に、若者は傘の紐を解いて、その顔をさらした。
 そこにあったのは、まだ幼さの残る、少年の爽やかな笑みだった。

「はじめまして。柳と申します」

 突然始まった自己紹介に、呆然としてしまった二人に構わず、柳は用件を淡々と、それでいて明朗に継げた。

「僕は、毛利様に使えております。花野井様に、毛利と告げていただければ、どこの誰かは分かると思います。あなた方が独自に魔王について調べていらっしゃるのは存知あげております。魔王はあなた方の許にいらっしゃるのですね? まあ、魔王がどこにいらっしゃろうといずれ毛利様が手にするので、関係ありません。ということで、まずは手を取り合おうではありませんか」

「……は?」

 怪訝な心情を隠し切れない鉄次に、柳は明朗に返した。

「主が言うには、風間か三条が封魔書を入れ替えたのはお前らの行動で分かった。黒田とも手を組んでいるのは知っている。我々にも真実を知り、魔王を手にする権利がある――とのことです。つまりはですね、仲間はずれにするんじゃねーよってことですね」

 柳はカラカラと声を出して笑った。
 無邪気なようでいて、残酷なような子供の笑み。何を考えているか分からない。
 その姿があまりにも得たいが知れなくて、鉄次の全身に鳥肌が立った。

「あの方は、案外嫉妬深いといいますか、結構可愛いところがありまして。まあ、つまりは抜け駆けすんなよってことなんですけどね。という事で、帰還いたしましたら、花野井様にお伝えください」

 あっさりとした調子で言って、柳は踵を返した。
 涙目で震える姪砂の横で、呆然とする鉄次が我に帰り、呼び止めようとした瞬間、思い返したように、柳が振り返った。

「あ、そうだ。密書(へんじ)が届かない場合、それなりの処置をさせていただきます。では!」

 その声音は明朗だったが、目の奥は暗闇のように、微々たる感情(ひかり)も映し出していなかった。
 鉄次は、ゆっくりと去って行く柳を引き止める事が出来なかった。
 何度か命の危険を感じた事があったが、それは彼にとって楽しみや快楽であり、恐怖ではなかった。
 しかし、幼さが残るあの少年に、鉄次は確かに恐怖したのである。
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