私の中におっさん(魔王)がいる。~黒田の章~

「おはよう」

 私が階段を下りようとすると、クロちゃんがちょうど出かけるところだったみたいで、ソファで身支度をしていた。

 クロちゃんの今日の衣装は、黒のパーカーのチャックを全部開けて、中にシンプルな白のシャツ。サルエルパンツに似た黒のズボンに、黄色と白の縞々靴下だ。わりと派手目な格好のクロちゃんにしては、今日は随分と落ち着いている。

 この国のファッションは、日本の原宿辺りに似ているのがあって懐かしい。

(そういえば、クロちゃんは家の中でもフードを取らないな)

「おはよう。今日は早いね」

 クロちゃんは嫌味を含みながら、さわやかに笑う。

「も~。それは言わないでよ! ここのところは早く起きてるじゃない」

 私が言い返すとクロちゃんは、ハハッと笑った。

「掃除頼むよ。家政婦さん」
「だれが家政婦ですか!」

 突っ込みながら階段を下りきると、歩き出していたクロちゃんは私の前を通る足を止めた。

「じゃあ、奥さんが良い?」

 薄緑色の瞳が優しく細められた。
 思わずと胸がときめいて、むずむずしたけど、

「もっと嫌です!」

 冗談っぽく、きっぱりと言うと、クロちゃんは無邪気に笑った。

 そのまま台所に歩いて行き、冷蔵庫から水吸筒(すいきゅうとう)という水筒を取り出した。
 そして玄関に向う。

「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」

 手を振りながら玄関のドアを閉める彼を見送り、踵を返すと不意にドアの開く音がした。
 朝の光が、三和土のない玄関に真っ直ぐに伸びる。
 逆行の人影が、慌てるように室内に入ってきた。

(――誰?)

 一瞬びっくりしたけど、なんてことはない。クロちゃんだった。

「忘れ物?」
「うん。そう」

 何忘れたんだろ?
 基本、彼は手ぶらで出かける。
 忘れるような物なんて、持って行かないはずだけど……。

「服」
「服?」

 尻切れトンボに首を傾げる。
 代えの服でも持っていくのかな?

「似合ってるよ、その服。可愛い」

 クロちゃんはやわらかく微笑んだ。

「――行ってくるね」

 呆然とする私を置いて、ドアが閉まる。
 私は慌てて、ドアに追いすがった。

「ありがとう!」

 閉まる寸前に、向こう側から微かに声が聞こえた。

「うん!」

――いってらっしゃい。

 口の中で言い含んだ言葉は、声として発せられなかった。

(それを言うために戻ってくるなんて……)

 魔王のことがあるんだろうけど、それを含んだとしても、感謝すべきことは、感謝しなくちゃね。
 私は閉じられたドアに、深々と一礼した。


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