悪の華は恋を廻る
 石造りの城は真冬の空気を染み込ませ、ひんやりとゾフィの手のひらの熱を奪う。
 高い天井とどこまでも続く長い廊下。少しの息遣いも響きそうな凛とした空気が漂うこの空間で、ゾフィは手のひらに神経を集中させてじっと息を殺していた。
 ゾフィの住む森の奥の古城は、皆が寝静まる深夜とはいえ、警備にぬかりはない。
 今も石壁にぴったりとあてた手のひらから、数人の警備兵の存在を感じる。だが、もう少しすると、警備兵の交代の時間だ。
 人数は増えるが、そこで引き継ぎを行う間、彼らの意識はほんの少し緩む。そこがチャンスだ。
 ここ数か月の間、自室のある北の塔から出ては毎晩のように城の中を徘徊し、使用人を困らせたのも全てこの時のためだった。この一瞬を逃してはいけない。
 ゾフィは静かに息を吐き出すと、再び手のひらに神経を集中させた。
 ゆるくカーブを描く鮮やかな赤い髪が一筋、白く滑らかな頬に落ちる。

(――来た。交代の兵だわ)

 ゾフィが隠れていた大きな彫像がある廊下から、ひとり、またひとりと警備兵の注意が緩んだのがわかった。

(今だわ!)

 ゾフィは急いで立ち上がると、彫像の影から飛び出し、視線の先にある大きな扉を開けると中に身を滑り込ませた。心臓はドクンドクンと早鐘のように打っている。だが、先を急がなければならない。他の場所も今は交代の時間だ。この隙に、城の外に出なければならないのだ。ゾフィは緊張で固まる足を必死に動かして走った。――すぐ後ろに、気配を消して後をつける男がいたことにも気づかず。

「はあ、はぁ……。ここまで来れば大丈夫ね」

 使用人が使う裏口から無事、城を脱出したゾフィは裏の森へと急いだ。森のお気に入りの大木の下に荷物を隠してある。これもまた、使用人にばれないように毎日少しずつ用意していたものだ。
 新月の暗闇の中でもゾフィは迷うことなく大木の下へと歩みを進める。
 新月の闇。そして、森を抜けた先、目指す異界の門の警備は獣人族のサボり魔ダミアン。こんな条件を揃うことを、じっと待っていたのだ。この日を逃せば今度はいつチャンスが訪れるかわからない。
 大木の下に積もり始めた雪を払い、枯葉や木の枝を除くと、ゾフィは荷物を取り上げた。
 荷物を確認すると立ち上がって門へと急ぐが、ふと思い立って途中で立ち止まると、ゾフィは今出てきたばかりの城を見上げた。
 城には未練はなかった。魔界の貴族である父親には自分の他に十四人もの子供がいる。それぞれが非常に優秀で、責任ある仕事を任されている自慢の兄弟だ。そんな中、落ちこぼれと言われ続けた自分がひとりいなくなっても、誰も気にしないだろう。
 それでも数人、ゾフィを気にかけてくれた兄弟はいる。特に、ゾフィが仕事できるように取り計らってくれた兄のバシルなどは、ゾフィの行動を知ったらなんと思うだろう。

(でも、もう決めたんだもの)

 チクリと痛む胸をごまかすかのように頭を振り、荷物を胸に抱え直したゾフィは、今度こそ前を向いて先を急いだ。
 異界の門は予想通り警備もなくひっそりとしていた。担当のダミアンはやはりサボっているらしい。
 獣人族のダミアン・ラクロは非常に優秀な若者で、一族の出世頭だ。だが、やりがいを感じない仕事は飽きてしまい抜け出すという困った一面もある。
 普段なら領主の娘としてダミアンを咎めるべき事案だが、今日ばかりは彼を褒めたかった。
 ゾフィは満足げににんまりと笑うと手にした鞄に手を突っ込み、中を探った。

「えーっと、この辺に……あら? あらら?」

 いくらゴソゴソと探っても、目的のものが見つからない。
 その場にしゃがみ込み、念入りにかばんの中を探るが、それでもやはり見つからない。

「うそでしょ!? ここまできて……勘弁してよ! どこ? どこなの?」

 ゾフィの顔に焦りが浮かぶ。
 いくらサボりがちとは言っても、ダミアンがいつ戻ってきてもおかしくはない。

「どうしよう……。バレたら今までの苦労が水の泡だわ」

 ゾフィは泣きそうになり、とうとうその場にへたり込んでしまった。
 その時、後ろからよく知る声が聞こえた。

「お探しのものはこれですか? お嬢様」
「ヒッ! ……ジョ、ジョルジュ……」

 恐る恐る振り返ると、そこには冷たい笑みをたたえた美貌の青年が立っていた。
 長く、艶やかな黒髪。黒いマント。新月の夜にまるで溶け込むかのような風貌に、その中で浮かび上がる人形のように整った白い顔。よく見慣れたゾフィでさえも一瞬、心臓が飛び出そうなほど驚いた。
 立っていたのはゾフィ専属の執事で、吸血族のジョルジュ・シャリエだった。
 用事を言いつけて、自室のある北の塔から遠くに行かせたはずのジョルジュが、なぜここにいるのだろう?

「あの……。ジョルジュ、あのね、これはその……」

 ゾフィはいたずらが見つかった子供のような気分になった。
 そんなゾフィの目の前で、ジョルジュはにっこりと微笑む。

「さあ。これでございましょう?」
   
 差し出されたその手には、探し求めていた小さな鍵を持っている。
 驚きに固まるゾフィの前で、ジョルジュはまた一歩彼女に近づき、優雅に膝をつく。
 ジョルジュの整った顔が間近に迫り、ゾフィは思わず後ずさった。
 ジョルジュの顔は微笑みを浮かべていたが、目は笑っておらず、彼が怒っているのがわかったのだ。

「……なぜそれを?」
「途中に落ちておりましたよ」
「あ、あらそう。じゃあ、返してくれる?」
「なぜです? まさか……お嬢様一筋の私を置いて、おひとりで人間界へ?」
「な、なんのことかしら?」

 とぼけてみるも、ゾフィは内心ヒヤヒヤだった。
 鍵がなければ門は開けられない。やっとのことで合鍵を手に入れたというのに、ここまで来て諦めるわけにはいかなかった。

「お願い! どうしても必要なの!」
「そうですか。では、開けてさしあげましょう」

 思いのほかすんなりと引き下がったジョルジュを驚いて見上げると、彼はその言葉通りに門の鍵穴に差し込んだ。
 彼の気が変わらないうちにと、ゾフィは慌てて立ち上がった。

「ただし、私が一緒に行くことが条件です」
「えっ!」
「私が、お嬢様をおひとりで行かせるとでも?」
「……ぐっ……」

 背に腹はかえられない。なんとしても、人間界に行かなければ。
 当初の予定とは違うが、最終的に自分が人間界に行くことができればそれで構わない。
 ゾフィは渋々ながら頷いた。

「悪ぃけどさー。それ、俺が困るんだわ」

 低い声が聞こえ、ハッとして声がした方を見ると、現れた影は一気に距離を縮め、ゾフィの目の前に立ちはだかった。

「よりによって俺が門番の日に家出とか、止めてくんねえ?」

 最悪だ。
 ゾフィは血の気が引いて行くのが分かった。
 まったくもって最悪の事態だ。
 このままでは人間界に行くどころか、厳格な父の前に突き出され、仕事も変えられてしまうかもしれない。そうなったら二度と人間界に行くことができない。それどころか、一生城に閉じ込められ、内勤で終わる寂しい一生になるかもしれない。
 そんなのはごめんだ。

「……さてと。“落ちこぼれ魔女”だけならともかく、ジョルジュ様も一緒とあってはさすがの俺もひとりじゃ心もとねえな」

 仲間を呼ぼうと手を口に当て、指笛を吹こうとしたダミアンの腕を、ゾフィが掴んだ。
 仲間を呼ばれたら一貫のおわりだ。

「あ? まさか、俺に力で対抗しようとでも思ってんの?」

 ゾフィが落ちこぼれ魔女だと揶揄されている世間の噂を、そのまま信じていたダミアンは、そう鼻で笑うとゾフィの手を振り払おうとした。
 それでもゾフィはグッとダミアンの腕を掴む手に力を入れる。

「手をおろして。……大人しく、門を開けて」

 すると、ゾフィの言葉通りダミアンの腕は静かにおりていく。それどころか、自分の意思とは関係なく腕が門に向かって伸びるのを見て驚いた。

「な、なんだよコレ……。あんた一体……」
「声を出さないで」

 ダミアンの太く逞しい腕には、ゾフィの華奢な手が添えられたままだった。だが、先ほどと違い、力は込められていない。
 ただ、触れているだけなのに――。
問い詰めようにも、ダミアンはその光景に口とパクパクとさせるだけで、そこから音が発せられることはなかった。
 体格差から考えても簡単に振りほどけるはずだったその手は、今ダミアンを言葉ひとつで自由に操っていた。
 言葉さえも封じされたダミアンは、信じられない思いでゾフィを見る。
 魔力を持たない落ちこぼれ魔女、ゾフィ。
 それが一体、どういうことなのか――ダミアンは自分の身におこっていることが理解できなかった。

「やれやれ。お嬢様の秘密を知ってしまっては、君にも来てもらわなくてはいけなくなりましたね」

 ジョルジュは面倒くさそうにそう言うと、ダミアンの手によって簡単に開けられた異界の門の向こう側へと、ダミアンを突き落した。
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