約束
【別離、そして再会】
妻子もある男性の子を身籠ったら、どうしたらいい?

打ち明けて、結婚を迫る? 認知はしてもらう? それともただ、どうしたらいいか聞く?

いずれにせよ、この事実が明るみに出れば、奥様や社会的に制裁を受けるだろう。彼に迷惑をかけたくない。彼はバレエの世界では知る人ぞ知る存在だ。そんな人が生徒の若い女を身籠らせたなんてなったら……。

でも、だからこそ。大好きな人の子を産めるのは、これを逃したらないのだと判る。

だから私は子供を産む決心をした。
彼にも、親にも言えない。

私は誰にも言わずに街を出た。県も跨いだ知人などいないであろう土地で再スタートを切る決心をして。





12月の氷雨が降る夜、私は男の子を生んだ。
シングルマザーを気に掛けてくれるのは、役所の人くらいだった。
ほかは誰からも詮索などされることなく、私はゆったりとした時間を過ごしていた。
かつてないほど、落ち着いた時間だった。

そして。息子の一歳の誕生日。

パート帰りに保育園へ行って息子を引き取り、スーパーで買い物をして、近くの洋菓子店で予約してあった小さなケーキを受け取る。

「ケーキ、ケーキ!」

何なのかもよく判っていないだろうに、食べたいと素振で訴える息子をなだめながら、私は家路を急いだ。

と、我が家である小さな鉄筋のアパート、その玄関前に。

壁を背に俯き加減に立っている男性がいた。

忘れるはずが無いその横顔、思わず笑顔になりかけたのを懸命に隠した。

逢ってはいけない、背を向けなくては、と思うのに足は縫い付けられたように動かなかった。

戸惑う間に、あなたは私に気付く。

「──やあ」

小さな挨拶だけだった、私は返事もできずにベビーカーを押す手をそのままに、その場にしゃがみ込んでいた。





彼に支えられるようにして、部屋に入った。

聞きたい事は山ほどあった。
なんでここが判ったのか、どうしてここへ来たのか、何をしに来たのか──同時に、帰って、とも言いたかった。あなたはここに居ていい人ではないから──。

でも、どれも口をつくことは無かった、いずれも確認したら、今、この僅かな幸せが壊れてしまいそうで……そう、あなたに会ってはいけないと思いながらも、会えたことを喜んでいる。

私は悪い女だ。

彼が息子をベビーカーから下ろしてくれた、自身の子は大分前に手を離れたのに慣れた様子だった。

「さあ、これは君へのプレゼントだ」

彼が大きな箱を息子に手渡した、息子はそれを両手を広げて受け取ると、よろよろ歩きながら部屋の奥へ進む。

「プ、プレゼント……!?」

思わず声が裏返った。

「ああ、今日はあの子の誕生日、だろう?」

目を細めて確認されて、私は慌てて目を反らした。

彼は知っている? あの子が自分の子だと──確認するのは怖くて慌てて部屋に上がる。

「僕もお邪魔していいかい?」
「え、ええ、どうぞ」

動揺のあまりそう言ってしまったが、すぐに後悔した、この時が帰ってもらう最後のチャンスだった。

彼が手伝ってプレゼントを開封するのを、私はキッチンから見ていた。そんな光景も彼と結ばれていればあっていい景色だと思うと、やたらに嬉しさが込み上げてくる、口の端が緩みそうになるのを懸命に堪えた。

中身は電車のおもちゃだった、彼も好きなのかしら? 息子はまだよく判っていないようで新幹線を飛行機のように飛ばして遊んでいる。そんな様子を嬉しそうに目を細めて見ている彼に、不覚にもこのままいてくれたら……などと思ってしまう。

夕飯が出来上がってしまった、彼もいっしょに食べ始める。
ひとときの家族ごっこだと思えた、帰ってもらわなくては、そう思うに、ほんの束の間でいいから傍に居て欲しいと願ってしまう。

食事の最中、何度か彼に息子の事について聞かれた、当たり障りのない事──何処で生まれただとかは答えたけれど、核心をつくこと──子供の父親については、席を立つなどして一切答えなかった。やがて彼も質問は辞めてくれた。

ただひとつ、辛かった質問がある。

「ちゃんと踊ってるのか?」

踊っていない、とは応えなかった。時折家の中ではストレッチ代わりにやっていたから。
でもあなたの前から消えてからは、トゥシューズは履いていない。それは言えなかった、あなたががっかりするだろうと思えて。

メニューはいつもとそう変わらないのに。小さなケーキと言うおまけはあったけれど、二時間近くかけて食事はゆっくり進んだ。彼との会話が絶えなかったのもある。昔に戻れたようで嬉しかった。

食事の片づけを始めると──。

「子供を風呂に入れようか?」
「え?」

どくん、と心臓が跳ね上がる。まさに父親の様ではないか。

「ずっとひとりでやってきたんだろう? たまにはゆっくりしたらいい」

言われて、そうだったと思い出す。子供から目を離せないので、おおかた烏の行水だ。それも永遠ではないと言い聞かせて一年やってきたが──彼の優しさに、僅かに心が動いた。

「うん──じゃあ、お願いしていい?」
「もちろん」

彼は笑顔で応えて息子を抱き上げると、迷うことなく風呂場へ向かった。

まもなく元気な笑い声が風呂場から響いてきた、遊んでいるのかしら? 私だと明日もあるから早く出て眠りたいと、かなり事務的だったと少し反省した。

暫くして風呂場から息子を迎えに来るよう呼ばれた。裸で脱衣所に立つ息子は、ほかほかした顔を更に紅潮させて、なにやら興奮した様子でいろいろ話してくれた、もっとも一歳児の会話は殆どこちらの勘による理解だ。ともかく楽しかったのだと判った。

パジャマ姿の息子とリビングに居ると、来た時の服を着た彼が髪を拭きながらやってくる。
着替えなどないから当然だ──でも、このまま帰るのだとまざまざと見せつけられた。

「君も入っておいで」

優しい声に頷き、私も風呂へ向かう。
久々にゆったりとひとりで湯船に浸かると、なんだか優雅な気分になれた。随分前に試供品でもらった美容液を含んだパックがあったのを思い出して、それを使ってみた。
リビングから微かに聞こえる子供のはしゃぐ声を聞きながら、パックした顔をそのままに、私は湯船でうたた寝をしてしまった。





いつもより長風呂になってしまった。慌ててパジャマを着てリビングに行くと、とても静かだった。

もう、帰ってしまったの? 挨拶もなしに?

「──先生?」

声を掛けたけれど反応がない、近づいてはっきりと判った、ふたり掛けのソファーの両端から、頭の先と膝から下が飛び出している。

背もたれからそっと覗き込んだ、仰向けに眠る彼の胸で息子も眠っていた。左手には新幹線の中間車が握られ、垂れ下がった右手の先にもその先頭車が落ちているから、彼の体の上で遊んでいたのだろうと想像できた。

そんな光景を思って、笑顔になると同時に涙も溢れそうになる。

「──今日は来てくれてありがとう。すごく嬉しい」

直接言えなかった感謝を寝顔にした。もう会うことはないと思っていたのに、まさかあなたから来てくれるなんて。

しかも、こんな風に息子と戯れて──写真を撮ったりしたら怒られるかしら。でも、眠っている今なら……私だけの思い出として……。

スマホを取りに行こうと思うのだけれど、それよりもふたりの安心しきった寝顔に見入ってしまった。

きっと息子はこの人が父親だとは判っていないだろう。それでも彼と無我夢中で遊んでいたに違いない。
彼も自分の息子だと言う確信はないだろう、それでもその遊びに付き合ってくれたのだ。

そう思うと、嬉しくて、幸福で──哀しかった。ひとときでも家族のように時間を共にしてくれただけで十分なのだけれど。

「──ねえ?」

私は彼の寝顔に、小さな小さな声で囁いた。

「もし、あなたが嫌じゃなかったら、来年の誕生日にも来てくれる? もし来てくれるって約束してくれたら、私、待ってるから──二歳の時に来れなくても、三歳の時に来てくれるかもって。三歳の時に来れなくても四歳の時には来てくれるって、ずっとずっと、毎年楽しみにできるじゃない……年に一度でも、あなたに逢えるかもって、何年も、何年も、それを生きがいに生きていけるじゃない──」

結婚したいとは思わない、あなたの家庭を壊すつもりはないから。
勝手に産んだのは私だもの。
それでもあなたが父親なのは事実だから、年に一度だけでも家族ごっこができたらいいな、なんて思ってしまうの。

でもそれは大義名分ね、本心は大好きなあなたにただ逢いただけだわ。

ねえ、あなたもそう? こんなところまで逢いに来てくれたあなたに期待してもいい?

だからしてしまう、ささやかだけれど、大胆な願いを。

ねえ、お願いよ、約束して。次の誕生日も一緒に祝ってくれるって──。




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