お忍び王子とカリソメ歌姫
 ここはバー。いつも歌っている場所。そのように言い聞かせて、頭の中は、歌うべき歌詞とメロディ。
 はじめの一曲は、少女が幼馴染の少年に恋をする、甘くもほんのり切ない歌。かわいらしく、しかし想い人に伝えるようにやさしい声音で歌い上げる。
 歌いながら思った。
 私はほんとうに歌うことが好き。
 それを噛みしめられるような時間だった。ほんのりとしたさみしさも同時に浮かんだのだけど。
 私は歌姫。『姫』と名がついていても、目の前に腰かけている少女たちとは違って、場末のバーで歌う、ただの庶民の娘。
 でもまるで否定はしない。バー・ヴァルファーで歌姫をしていたからこそ、そこへおつかいにやってきたシャイと知り合うことができたのだ。つまり、二人を引き合わせたのは歌であるともいえる。
 そういう意味では、サシャにとって歌や、歌姫という仕事は誇るべきで大切なものなのであった。
 サシャが歌う間、少女たちの中には、サシャの歌声に合わせて頭や肩を揺らしたり、くちずさむような動きを見せる娘もいた。
 二曲目が終わったとき。唐突にキアラ姫が立ち上がった。少女たちだけでなく、サシャもちょっと驚いてそちらを見る。
「ねぇ、皆さま。サーシャ様の歌われた、お歌。おうちでは反対されているでしょうけれど、こっそり歌ったことがあるのではなくって?」
 思わせぶりに言ったキアラ姫の言葉に、少女たちはくすくすと笑い合う。
 それはそうだろう。貴族などの、身分の高い生まれではポップスなどを大っぴらに歌えるほうが珍しいのかもしれないのだから。
 ポップス。貴族の大人にとっては、特にプライドの高い大人であれば俗も過ぎる存在であろう。
「せっかくの機会よ。……ねぇ、サーシャ様。皆で歌うのはどうかしら?」
「まぁ。それは良いですね」
 この空気にも慣れていたサシャはその突飛な提案もするっと受け入れてしまった。生来の大胆な気質が顔を出していた。
「でも楽譜が……」
 歌詞の載っている楽譜は、サシャ用の一枚しかないのだ。よって言ったのだが、キアラ姫は胸を張る。
「うふふ。実は用意させたのよ。人数分ね。……持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
 メイドも承知していたようで、さらっと紙を持ってきて少女たちに配っていった。
 楽譜を見つめる少女たちの瞳は、皆きらきらとしていた。
 良いおうちの娘だけあって、こういうところは抑圧されたりするのね。
 サシャは目の前の様子を見て思い知った。
 キアラ姫や、貴族のお嬢様。庶民の娘として、お嬢様やお姫様は、何不自由なく育てられて羨ましい、なんて思ったことは当然ある。
 綺麗なドレスを着て、仕事をしなくてもご飯が食べられて、良いお勉強だって受けることができる。なんて恵まれた生まれなのだろうと。
 でもそればかりではないのだ。
 サシャたち、街で暮らす庶民の女の子たちが普通に触れたり手に取ったりできるものが、彼女たちは逆に手にできないこともある。なにごとも一長一短。サシャは噛みしめる。
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