シンデレラと恋するカクテル
第2章
〇朝、マンションのベッドルーム

ジューッという小気味いい音が聞こえ、香ばしい香りしてきて、栞奈は寝ながら微笑む。

菜々(あああっ、いいにおい! ベーコンだぁ!)

スーパーの閉店間際の半額セールで買った厚切りベーコンを、フライパンで表面をゆっくりカリカリに焼いて食べたことを思い出す。

菜々(あー、あれは贅沢だったなぁ。外はかりっとして香ばしいのに、噛むとじゅわっと肉汁が口の中に広がって……。スパイシーでちょっとしょっぱいところがいいんだよね。レタスと一緒に食べると最高……)

そう思ったとたん、目の前にこんがり焼けた厚切りベーコンが現れた。

菜々(あああーっ、ベーコン! しかも厚切り!)

あーんと大きな口を開けてかぶりつく。

菜々(あれ?)

むしゃむしゃしてみたものの、期待したようなジューシーなベーコンの油があふれてこない。怪訝に思いながらも噛み続けていると、ベーコンが口の中からひょいっと逃げ出した。

菜々「あっ、待って!」

必死に両手を伸ばしてしがみつき、引き寄せたところを再び大きな口を開けて……。カプッと口に含んだそれは、今度は柔らかかった。

菜々(まだ生なの?)

確かめるように軽く噛み、油が出てこないかと吸ってみた。それでも期待した味はしない。

菜々「なんでぇ……?」

不思議に思って目を開けたとたん、菜々の全身が硬直した。目の前の光景が信じられず、ぽかんと開けた口から、永輝の柔らかな下唇がするりと抜け出した。そう、菜々がしがみついていたのは、昨日初めて行ったバーで初めて会った永輝の首。そして、かじりついて(?)いたのは彼の唇だったのだ!

菜々「きゃーっ」

菜々は反射的に彼の両肩を押しやった。そうしてあわてて起き上がったものの、そこは見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。そして、ベッドの横では永輝が立ったまま腰をかがめて菜々の顔を覗き込んでいる。

菜々「あ、えっ、あのっ」

永輝が腰を伸ばしながら言う。彼はホワイトシャツにネイビーのジーンズ姿で、腰に生成りのカフェエプロンを巻き、右手にフライ返しを持っている。

永輝「おはよう。眠り姫はお目覚めかな?」

永輝はにっこり笑った。

永輝「菜々ちゃんって意外と積極的なんだね。朝食の準備は後回しにしようかな」

永輝が印象的な二重の目を細め、形のいい唇の間から小さく舌を覗かせながらベッドに片膝を乗せた。菜々は驚いて座ったまま後退る。

菜々「や、あの、これはいったいどういう……」

永輝の表情が色っぽすぎて直視できず、菜々は視線を彼の顔から手前へと移動させた。目に入ったのは、菜々の体を包むように、足元から乱れてかかる淡いグリーンのタオルケット。それをおそるおそるめくってみると、菜々は昨日と同じ、ネイビーのジャージー生地のフレアスカートとペールブルーのブラウスを身につけていた。

菜々(服は着てるけど、でも、まさか……)

菜々は服の上から体を触って、ショーツもブラジャーも乱れておらず、ストッキングも履いていることを確かめた。

菜々はチラリと永輝を見た。菜々の狼狽ぶりをじっと見ていた彼は、ついにふっと笑みをこぼした。

永輝「大丈夫だよ。いくら俺でも、寝ている女性を襲ったりはしない。一応同じベッドで寝るには寝たけど、そういうことはちゃんと同意を得てからする」
菜々「そ、そうですか……」

菜々がホッとしたのも束の間、永輝がフライ返しを放り出してベッドに上がり、座ったままの菜々の両手に自分の両手を重ねた。

永輝「でも、今、同意をもらったよな?」

そう言って端正な顔を傾けて近づいてくる。

菜々「あ、あ、ああああ、あのっ」

彼の顔を押しのけたいけれど、両手を押さえられていては身動きが取れない。菜々は彼の唇から逃れようと勢いよくのけぞり、後頭部を壁にゴンッとぶつけた。

菜々「いったっ……」

あまりに派手な音に永輝の動きが止まった。そうして痛みのあまり涙目になっている菜々をまじまじと見つめる。その隙を逃すまいと、菜々は必死で口を動かした。

菜々「あの、あのあのっ、私っ、同意をしたわけじゃないんですっ!」

永輝が黙って首を傾げたまま菜々を見る。

菜々「私、夢の中でベーコンを食べてたんですっ。そうしたら、ベーコンが口から逃げ出して……だからつかまえて食べたら、どういうわけか永輝さんの、く、く、唇を食べていたっていうか……」

しどろもどろになりながら説明する菜々の目の前に、永輝がタオルケットを持ち上げた。

永輝「さっき菜々ちゃんが食べていたのはこれ。タオルケットなんか食べてもおいしくないだろうと思って取り上げたら、俺の首にしがみついて熱烈なキスをしてくれたんだけど」
菜々「えっ」

永輝が持っているタオルケットは、角がヘタって湿っている。

菜々「じゃあ、私がもしゃもしゃしてたのって……この角?」
永輝「これをベーコンだというのならまだしも、セクシーだと評判のこの俺の下唇をベーコンと間違えるなんてどういうことだろう」
菜々「あの、すみませんっ。本当にごめんなさい! た、確かに永輝さんの唇はベーコンとは似ても似つかぬ……セクシーな唇だと思います。でも、あの、どうして私がここにいるのか説明してもらえませんか?」

菜々がおずおず視線を上げると、永輝はベッドから下りてフライ返しを拾い上げていた。

永輝「腹が減ったから食べながら説明するよ。菜々ちゃんもシャワーでも浴びてきたら?」
菜々「い、いいえっ。あの、顔だけ洗わせてください」
永輝「どうぞご自由に。洗面所もそっち。タオルは横の棚に入っているから好きなのを使って」
菜々「すみません」

菜々はベッドから下りようと体の上からタオルケットをどけたが、スカートが乱れて太ももが丸見えだったので、真っ赤になりながらあわてて裾を引き下げた。

菜々「す、すみません」

菜々は洗面所で顔を洗ってタオルで拭いた。

菜々(私……きっとバーで酔いつぶれちゃったってことだよね……。飲み慣れてないのに、二杯も飲んじゃったからかな……)

鏡の顔は髪が乱れてメイクが落ちている。けれど、よく眠った後のすっきりした表情だ。

菜々(久しぶりによく寝た気がする)
菜々「今何時ですかっ?」

あわててさっきの部屋に戻ったが、そこに永輝の姿はなかった。もう一つのドアを開けてみると、そこがリビング・ダイニングになっていて、ダークブラウンのテーブルに永輝が皿を並べているところだった。

永輝「今は八時半だよ」

壁の掛け時計を見て、菜々はホッと胸を撫で下ろした。

菜々「よかったぁ……」
永輝「土曜日なのに朝から予定があるの?」
菜々「あ、はい。予備校の受付の仕事が十時からあるんです。あの、ちなみにここはどこですか?」
永輝「サンドリヨンの上の上」
菜々「つまり、バーの入っているマンションの三階ってことですか?」
永輝「そうだよ。ここは俺の部屋」
菜々「そうですよね。あの、私がバーで酔いつぶれたので泊めてくださったってことですよね?」
永輝「そういうこと。閉店時間まで待ったけど、いくら声を掛けても揺すっても起きないし、家もわからないから」
菜々「ほ、本当に申し訳ありませんっ」

菜々は深々と頭を下げた。

永輝「いや、こっちこそキミが飲める以上に飲ませてしまったみたいで、悪かったね」
菜々「すみません。実は私、お酒は二年前、二十歳になったときに一度飲んだだけで、それ以来、飲んだことがないんです。でも、昨日はすごく楽しい雰囲気で、一杯目もおいしくて飲みやすかったから、つい飲めるふりをしてしまって……。自分がお酒に弱いなんて知らなくて、本当にご迷惑をお掛けしました」
永輝「いいよ、迷惑だとは思ってないから。それじゃ、気分を変えて朝食でも食べようか。仕事があるなら急がないといけないね」
菜々「あ、でも、泊めていただいたうえに朝食までごちそうになるのは申し訳ないですから、私はこれで」

永輝はいたずらっぽく笑って言う。

永輝「せっかく用意した朝食を食べずに帰ってしまう方が申し訳ないと思わない?」
菜々「でも……」
永輝「それとも今から行かないと仕事に遅れるとか?」
菜々「あ、いえ。ここからなら九時に出れば間に合うと思います」
永輝「それならぜひ食べていって。キミが残したら、それこそ食べ物が無駄になる」

永輝は椅子を引いて手で座るように合図をし、菜々は遠慮がちに腰を下ろした。

菜々「すみません、それじゃ、お言葉に甘えてごちそうになります」

永輝はそうして向かい合わせに腰を下ろす。

永輝「菜々ちゃんはコーヒー飲める?」
菜々「はい」
永輝「砂糖とミルクは?」
菜々「あ、両方……」

永輝は白いシュガーポットとミルクピッチャーののったかわいらしいトレイを手で示した。

菜々(男の人なのに、おしゃれなのを持ってるんだ……)

菜々はハッとする。

菜々「あの、すみません。私を泊めて誤解されたりしませんか?」
永輝「誤解?」
菜々「はい。彼女さんとか奧さんとか……」
永輝「ああ、どっちもいない。特定の相手は作らない主義なんだ」
菜々「そうですか……」
菜々(モテそうだし、今までの言動も軽い感じだったもんね……。初めて会った私を家に泊めても平気なみたいだし……やっぱり軽い人なのかな?)
 
菜々は彼とキスしたことを思い出して顔を赤くした。

菜々(べ、別にファーストキスってわけじゃないし……)
永輝「菜々ちゃんは大丈夫なの? もし彼氏に誤解されそうになったら、俺がきちんと説明するけど」
菜々「彼氏はいません。というより、今は毎日の生活で精一杯です」
永輝「毎日の生活……? 二年前に二十歳になったって言ってたよね。仕事があるって言ってたから、社会人一年目で大変ってことかな」
菜々「あ、いえ……就職活動に失敗して就職できなかったんで……今はアルバイトで生活を……」

菜々(本当は就職活動に集中できなくてどこからも内定をもらえなくて……とりあえず食べていくためにアルバイトを始めたんだよね……。そうしたら第二新卒としての就職活動にも手が回らなくなって……)

菜々は視線を落とした。目の前の皿の上には、夢にまで見た肉厚ベーコンとスクランブルエッグ、レタスが彩りよく盛られていて、別の皿にはこんがりきつね色に焼かれたトーストがのっている。それでも、心が浮き立たないのは、両親のことを思い出したせいだ。

菜々(お母さん、お父さん……)

永輝「とりあえず食べようか」

沈んだ様子を気遣うように永輝に言われて、菜々は顔を上げた。

菜々「すみません」
永輝「それじゃ、いただきます」

永輝はフォークとナイフを取り上げた。

菜々「いただきます」

菜々はコーヒーに砂糖とミルクを入れて掻き混ぜた。菜々が一口飲んだとき、永輝が軽い調子で話し始める。

永輝「夜はだいたい七時頃からサンドリヨンを開けてるから、また気が向いたら寄ってくれると嬉しいな。毎日十時からフレア・ショーもやってるし」
菜々「あ、昨日見せてくれましたよね。息をするのを忘れてしまうくらいかっこよかったです」
永輝「ありがとう。実は趣味なんだ」
菜々「趣味なんですか?」
永輝「そう。自分ではフレア・バーテンダーなんて名乗ってるけど、自己流だし、大会とか出たことはない。でも、来てくれるお客さんに楽しんでもらえたらって思って始めたんだ」
菜々「バーテンダーのお仕事はいつからされているんですか?」
永輝「サンドリヨンをオープンしてからだから、もうすぐ二年になるかな。大学を卒業して証券会社で働いてたんだけど、四年目に辞めたんだ。今はデイトレーダーをしながらバーを営業して、毎日楽しく過ごしてるよ」
菜々「デイトレーダー……ですか」
永輝「そう。証券会社でお客さんの注文ばかり受けているのがつまらなくなって、自分でも取引したいと思うようになってさ。それで会社を辞めた」
菜々「デイトレードって儲かるんですか?」
永輝「株の売買に使うのは余った金じゃないとダメだよ。生活費を注ぎ込んだらいけない」
菜々「そうですよね……」
(貴重なバイト代を株に注ぎ込んで損などしたら、文字通り生きていけなくなる。私がしちゃダメだね)
永輝「もし興味があったらチャートの見方とか教えるよ」
菜々「あ、いえ、せっかくですけど、いいんです。昨日、家庭教師のバイトを一つクビになったところなのに、株取引に使う余裕はありませんから」
永輝「そうだったんだ……。だからサンドリヨンに来たとき、あんな落ち込んだ顔をしてたんだね」
菜々「私、そんなにわかりやすかったですか?」
永輝「うん、まあ。だから、余計放っておけなくて店に誘ったんだけど、酔いつぶれさせてしまって悪かったね」
菜々「いえ、いいんです。あれは自分の責任ですから。そういえば私、昨日、お金を払ってませんよね? おいくらですか? 食事の後で払います」
永輝「いや、いいよ。無理矢理飲ませたのはこっちの方だし」
菜々「いえ、そういうわけにはいきません」
永輝「いやいや、朝、熱いキスをしてくれたから、あれでチャラにしておくよ」

永輝にニヤッとされて、菜々は目を見開いた。

菜々「わ、私、体でお金を払うとか、そういうことはしてませんっ!」
永輝「え?」

永輝の顔から笑みが消えた。

菜々「いくらお金に困ってるからって、わ、私、援助交際とか売春とかしてませんっ。そ、そりゃ、初めて会った男の人の家に泊めてもらうような女だから、そう思われても仕方ないのかもしれませんけど、でも、私、そういうのは好きな人としかしないって決めてますからっ!」

菜々の剣幕に驚き、永輝は軽く両手を挙げた。

永輝「いや、ごめん。そういうつもりで言ったんじゃない。これでも俺なりに申し訳ないなって思ってたから……」

永輝の言葉を聞いて、菜々の頬が赤く染まった。

菜々(やだ、すごい自意識過剰みたい……。私がお金に困ってそうなのを、永輝さんは気遣って言ってくれただけなのに……。それに、そもそも私の体にそんな価値なんてないよね)

恥ずかしいのと悲しいのとで泣きたくなってきたが、これ以上彼に迷惑をかけたくないと下唇を噛んでぐっとこらえた。

しばらく黙ってトーストを食べていた永輝が、ふと口を開いた。

永輝「もしよかったら……」

菜々は涙をこらえようと瞬きを繰り返しながら顔を上げた。

菜々「はい?」
永輝「もしよかったら、クビになったっていう家庭教師のバイトの代わりに、サンドリヨンを手伝ってくれないかな?」
菜々「え?」
永輝「フレアをやってる間や俺がメシを食ってる間に店を見ててくれると助かるんだ。もちろん、来るのは毎日じゃなくて、週に一回とか菜々ちゃんの都合のいいときだけでいい。昨日のカクテル代は、そのバイト代から引かせてもらう。それでどう?」
菜々「でも……」
永輝「食事も付けるよ。実はさ、前のバイトの娘(こ)とちょっと付き合ったんだけど、別れたらバイトも辞められちゃって、困ってたんだ。そうそう、それに客は俺の知り合いばかりだから、変なヤツはいない。あ、昨日みたいに俺のことを遊び人みたいに言うヤツもいるけど、菜々ちゃんには手を出さないし、ほかの客にも手は出させない。だから、引き受けてもらえないかな?」

菜々はフォークを持った手を止めて考える。

菜々(食事付きなら願ったり叶ったりよね。バーの雰囲気も、昨日の感じじゃ悪くなかったし、永輝さんも手を出さないって約束してくれるんなら……)

菜々「ぜひ働かせてください」
永輝「いいの?」

永輝の顔が嬉しそうにほころんだ。

菜々「はい」
永輝「よかった! 何曜日来れそう?」
菜々「えっと、月曜は午後から夜まで個別指導塾の講師のバイトをしてて、火曜から土曜までは昼間に予備校の受付をしてるんです。で、木曜の夜は家庭教師をやってるんで……火、水、金、日なら来られます」

永輝の表情が心配そうに曇った。

永輝「そんなに働いてるんだ」
菜々「まあ……健康保険料とか税金とか……いろいろ払わなくちゃいけないものもありますし……」
永輝「大変だね。でも、日曜日くらいは休まないと」
菜々「体力には自信ありますよ。むしろガンガン働きたいくらいです」

菜々(あ、これじゃ、お金にがめついみたいだよね。恥ずかしい)

菜々「やっぱり日曜日は休みます」
永輝「それがいいよ。じゃあ、うちで働いてもらうのは火曜と水曜と金曜の週三日ということでいいかな」
菜々「はい」
永輝「それじゃ、来週の火曜日からよろしく」
菜々「こちらこそよろしくお願いします」
永輝「それから、履歴書まではいらないけど、何かあったときのために連絡先を教えてくれる?携帯電話の番号とか……実家の電話番号とか」

一瞬、悲しげな表情をする菜々だが、すぐに笑顔を作った。

菜々「じゃあ、私の携帯番号でいいですか? アパートには電話がないし、実家の電話には誰も出ないんで」
永輝「わかった。じゃあ、連絡を取りたいときは菜々ちゃんの携帯にかけるようにするよ」
菜々「ありがとうございます」
永輝「そうと決まれば急いで食べないと。予備校の仕事に遅れるんじゃないか?」
永輝に言われて、菜々はあわてて壁の時計を見た。九時まであと十五分しかない。
菜々「大変!」
永輝「あわてて食べて喉に詰めるなよ」
菜々「いくら永輝さんより年下だからって、そこまで子どもじゃありませんよ」

菜々は答えたとたん、トーストを喉に詰まらせ、菜々はあわててコーヒーで流し込んだ。

永輝「言ったとたん、それか。もしかして受け狙い?」
菜々「そ、そんなわけっ」

菜々が胸をトントンと叩きながら軽く睨むと、永輝がおかしそうに笑い出した。つられて菜々も笑い出す。

菜々(久しぶりに笑った……)


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