シンデレラと恋するカクテル
第1章
〇(回想)家庭教師先の男子高校生の家

高二男子の母「ごめんなさいねぇ、斎城〈さいじょう〉さんは京阪大学の卒業生だから家庭教師をお願いしてたんだけど、京阪大に合格するには、卒業生に勉強を教わるより、受験のノウハウに詳しい大手予備校に通った方がいいと思ったの。だから、もう来てくださらなくて結構よ」

〇夜の住宅街

斎城菜々〈なな〉、22歳、とぼとぼと歩く。

菜々(突然、来なくていいなんて……あんまりだよ。また家庭教師派遣センターに頼んで、派遣先を探してもらわなくちゃ……。それとも、個別指導塾のコマを増やしてもらおうかな……)

ため息をついて夜空を見上げる。半月を見てお腹が鳴る。

菜々「オムライスみたい……あーあ、お腹空いたな……」

雨上がりの歩道を見回し、見慣れない店に気づく。

菜々(こんなところにバーなんてあったっけ?)

誰もいない小さな公園のはす向かいに、ダークブラウンの外壁がおしゃれな五階建てのマンションがある。その店はその一階にあった。淡いオレンジ色のライトが照らす黒板に、白いペンキの文字でBAR CENDRILLONと書かれている。

菜々(サンドリヨンってフランス語でシンデレラってことだよね……)

引き寄せられるように横断歩道を渡って、そのバーの前で立ち止まった。ショルダーバッグの中に手を入れ、もらったばかりの薄い茶封筒を握りしめる。中に入っているのは今月のバイト代だ。貴重な生活費。でも、いきなり今日、という何の心構えもできないうちに突然クビを切られたこのやり場のない気持ちを晴らしたい。

菜々(コンビニで缶カクテルを買うと、二百円でお釣りが来る。でも、こういうお店だと絶対に一杯五百円以上はするよね。それにチャージ料だって取られるだろうし……)

節約しなくちゃ、という気持ちと、ぱーっと使ってすっきりしちゃえ、という気持ちが葛藤する。

菜々(一晩……ううん、一時間でもいい。安アパートでの貧乏生活を忘れて、優雅な気持ちに浸りたい……)

ゴクリと唾を飲み込むと、思い切ってそのバーのドアノブに手をかけた。引いて開けたとたん、テンポのいい音楽が漏れてくる。そして、淡い照明とともに目に飛び込んできたのは、バーカウンターの向こうでボトルを放り上げているバーテンダーの姿。

菜々(え?)

驚いてドアを閉める。

菜々(何、あの人。バーテンダーの格好をしてたよね? なんでボトルを投げてるの? ケンカ? いや、それより飲み物を粗末にするなんてっ。ここは一つ、食料自給率の低い国の国民として一言注意してやらねば)

ドアノブを握る手に力を入れたが、思い直してノブから手を離した。

菜々(やっぱやめよう。私、この店、初めてだし。関わり合いにならない方がいいよね)

再び駅に向かって歩き始めたとき、背後でドアが開く。振り向くと、さっきボトルを投げていたバーテンダーがドアの前に立っていた。額の上で長めの前髪が乱れ、興奮気味に頬を上気させているが、甘く整った顔立ちの男性だ。

バーテンダー「入らないの?」

菜々(わあ、イケメン……って、違うから!)

思わず見惚れてしまい、慌てて平静を装う。

菜々「入ろうかと思ったんですけど、飲み物を粗末にするようなお店はやめておきます」

バーテンダーが早足で歩いてきて菜々の前に回り込んだ。

バーテンダー「粗末にってどういうこと?」

眉を寄せて心外だとでも言いたげな表情で見下ろされ、菜々はゴクリと喉を鳴らす。

菜々「あの、ボトルを投げていたから……ドリンクが無駄になってしまったんじゃないかと……」
バーテンダー「ああ」

バーテンダーは納得した、というように右の拳で左の手のひらをポンと叩いた。

バーテンダー「どうぞ、入って」

そうして菜々の手首をつかむと、引っ張るようにして歩き出す。

菜々「いえ、私、いいんです。帰るつもりだったんで」
バーテンダー「いや、そういうわけにはいかない。店に入ろうとしてくれたお客様をそのまま帰すなんて、フレア・バーテンダー、永輝〈えいき〉の名が廃る」
菜々「フレア・バーテンダー……永輝……?」

菜々が聞き慣れない言葉に首を傾げる。永輝と名乗ったそのバーテンダーは、サンドリヨンのドアを開けて菜々を店内に引き入れた。こぢんまりとしたバーの中はさっき見たときと同じ。シックなダークブラウンの羽目板張りの壁を、ランプ型の落ち着いた照明がほんのり照らしていて、バーカウンターの向こうの棚にはさまざまな大きさや色、ラベルのボトルが所狭しと並んでいる。店内には十人ほどの客がいて、丸テーブルやカウンターに座って、それぞれドリンクを飲んでいた。だが、音楽だけはさっきと違う。先ほどはノリのいい洋楽が流れていたのに、今は落ち着いたジャズがかかっている。

カウンター席に座っている明るい茶髪の三十歳男性客「お、永輝がナンパしてきた」
永輝「アホ。サンドリヨンはおまえみたいなチャラ男じゃなく、女性にステキなひとときを過ごしてもらうための店なんだ。せっかく覗いてくれた女性をそのまま帰すわけにはいかないからな」

永輝は菜々に左手で空いているカウンター席を示す。

菜々「あ、いえ、私……」

菜々は戸惑いながら一歩下がったが、永輝が耳元に顔を近づけてささやく。

永輝「飲み物を粗末にしているわけじゃないから。見てくれたらわかる」
菜々「見てくれたらって……」
(さっき……ボトルを投げてたじゃない)

永輝「キミにステキな時間をプレゼントするよ」

菜々(ステキな時間って……?)

背中を軽く押されて、菜々はしぶしぶカウンターの真ん中の席に腰を下ろした。

永輝がカウンターの向こうに回って、オーディオを操作する。菜々の前、カウンターの上にカクテルグラスを置いた。

永輝「初めてご来店のお客様、フレア・バーテンダー、永輝のフレア・ショーをどうぞご覧ください。スリー・ツー・ワン、ゴー!」

直後、アップテンポの洋楽が始まった。菜々もよく知っている、気分が上がる曲だ。イントロの間に永輝が棚のボトルを一本すばやく右手で取り、左手にステンレス製のカップ、ティンを持ったかと思うと、メロディに合わせてボトルを投げ上げた。

菜々「あっ」

直後、永輝が落ちてきたボトルの底をすくうようにしてティンで受け止めた。ホッとするまもなく、今度はボトルを持った右手を体の後ろに回し、背後から投げ上げた。落ちてきたボトルが、彼が体の前で構えたティンに吸い込まれるようにすとんと収まる。そうして彼はボトルとティンを軽やかにジャグリングし始めた。彼の体の前で、後ろで、肩の上で、頭上で、ティンが、ボトルが、軽やかに飛び回る。

菜々(何、これ!)

目を輝かせて、永輝の動きを見つめた。曲に合わせて彼がボトルとティンを交互に投げ上げながら、その場で一回転してみせる。

菜々「わあ!」

永輝が手の甲にボトルを乗せ、リズムよく跳ね上げたかと思うと、回転しながら落ちてきたボトルを今度は肘で跳ね上げる。そうして落ちてきたボトルのネックを右手で難なくキャッチすると、淡い蜂蜜色の液体をティンに注いだ。そのままボトルをカウンターに置いて、今度は別のティンを取り上げ、手のひらの上で回転させたかと思うと、二つのティンを同時に投げ上げた。

菜々(こぼれるっ)

菜々は息を呑んだが、ドリンクを一滴もこぼさず、ティンは再び永輝の手の中へ。菜々に息をする隙も与えず、永輝は右手のティンを軽く振り上げ、中身だけを飛ばした。一直線に伸びた蜂蜜色の液体が、まるでスローモーションのように永輝の左手のティンの中に吸い込まれていく。

菜々は夢中で彼を見つめる。

永輝はティンからドリンクをシェーカーに移すと、今度はボトルを二本取り上げた。それとティンとの三つのアイテムを、お手玉のように高く放り投げる。次は背中から投げ上げたボトルを肘で受け止め、バランスを取ったかと思えば、そのまま肘で跳ねあげた。

菜々「あっ」

ドキッとする菜々の目の前で、永輝が落ちてきたボトルのネックをつかんだ。そしてそこから紅色の液体をシェーカーに注ぐ。続いてボトルを三本取り上げ、一本ずつ投げ上げたかと思うと、落ちてきた順にすばやく投げ上げ続ける。

菜々はハラハラドキドキの表情。

永輝は三本のボトルを受け止めると、一本からカラメル色のドリンクをシェーカーに注いだ。音楽もいよいよ終盤に向かう。永輝はシェーカーに氷を入れて、濾し器(ストレーナー)とキャップを被せ、シェークし始めた。シャカシャカという小気味よい音が音楽に重なり、曲が終わると同時に、キャップを外して中身をカクテルグラスに注いだ。深い琥珀のような色で満たされたグラスを、コースターにのせて菜々の前に置く。

永輝「どうぞ、プリンセス・プライドです。キミをイメージして作りました」

整った顔でにっこりされて、菜々は魅了されたようにほうっと息を吐き出した。

永輝「ありがとうございます」

菜々、そっとグラスを取り上げてカクテルを口に含んだ。カルヴァドスのほのかなリンゴの香り、アペリティフ・ワインとして飲まれることの多いデュボネの深い味わい、スイートベルモットの甘い香りと風味が口の中に広がる。アルコールに慣れていない菜々にも、甘くてとても飲みやすい。

菜々「おいしいです」

菜々が顔を上げると、永輝の笑みが大きくなる。

永輝「キミのために作ったんだ」

いたずらっぽく目配せされて、菜々の胸が大きな音を立てた。ドキドキする。

菜々(きっとカクテルに酔ったせいだよ!)

彼にまっすぐに見つめられ、特別な存在になったような気がしてきた。

菜々(これが、彼の言っていたステキな時間……?)

カクテルを飲みながら、うっとりと息を吐くと、一つ空いた隣の席に座っていた三十歳男性客が菜々に話しかけてきた。

三十歳男性客「サンドリヨンは初めてみたいだね。永輝のフレアはどうだった?」
菜々「フレア?」

三十歳男性客「さっきみたいに、ボトルとかシェーカーを使って曲芸みたいなパフォーマンスをしてカクテルを作ることを、フレア・バーテンディングって言うんだ。簡単にフレアとも言うけど」
菜々「そうなんですね。初めて知りました」
永輝「ね。ドリンクを粗末にしてたわけじゃないってわかった?」

菜々は頬を赤くする。

菜々「何も知らないのに、決めつけて変なことを言ってごめんなさい」
永輝「お、意外と素直だ」
菜々「意外とって……」
永輝「サンドリヨンのドアを開けたとき、すごく落ち込んだ顔をしてたから、気になってさ。少しでも気持ちが明るくなればと思って。無理に誘って、こっちこそごめん」
菜々(強引そうな人だったのに……意外といい人かも?)

菜々はクスッと笑う。

菜々「永輝さんも意外と素直ですね」
永輝「へえ、初対面で俺の魅力に気づくなんて、キミってなかなか鋭い観察眼をしてるんだね」

永輝はニヤリと笑う。

菜々(うわ、やっぱチャラいかも)

三十歳男性客「永輝が素直なわけないだろ」

永輝は小さく肩をすくめ、菜々に右手を差し出す。

永輝「サンドリヨンのオーナー・バーテンダーの深森〈ふかもり〉永輝〈えいき〉です。キミは?」

菜々は右手を伸ばして彼の手を握りながら言う。

菜々「斎城菜々です。よろしくお願いします」
永輝「今日のフレア・ショーはもう終わりにするつもりなんだけど、カクテルなら何でも好きなのを作ってあげるから、飲みたいのを言ってみて。名前がわからなくても味の好みやイメージを教えてくれれば、キミにぴったりなのを作ってみせるから」
菜々「じゃあ次は、もっと甘い気分にしてくれるカクテルをお願いします」
永輝「甘いのが好きなの?」
菜々「そうですね。ピーチ・フィズとかを飲みます」
(実はピーチ・フィズしか飲んだことがないんだけど。バーに入ろうとしたくせにカクテルに詳しくないことがバレたら恥ずかしいし、黙っておこう)

永輝「じゃあ、甘くて爽やかなのが好みなのかな」

永輝、背後の棚から鮮やかな赤いボトルを取り上げた。

菜々(あれはどんな味がするのかな……)

永輝がリキュールドフレーズと書かれたそのボトルの中身を少量シェーカーに注ぎ、続いて深い琥珀色のコニャック、ストロベリークリーム、レモンジュースを加えてシェークを始めた。そうしてさっきとは違う、口の広いソーサー型と呼ばれるシャンパングラスにドリンクを注いだ。

永輝「サマー・フェアリーです」

菜々の目の前に、深いピンクにも紅にも見えるカクテルが置かれた。

菜々「かわいい名前のカクテルですね」
(おとぎ話みたい……。子どもの頃は王子様が助けに来てくれるって信じてたけど……結局、運命は自分で乗り越えるしかないんだよね……)

菜々はグラスに口をつけた。パッと顔を輝かせる。

菜々「甘いのに爽やかでおいしいです。夏の妖精ってこんなイメージなんでしょうか」

けれど、なんだか世界がにじんで、ゆらゆら揺れて見える。

永輝「おもしろいことを言うね」

菜々の目には永輝が三人に見えた。

菜々「永輝さんって三つ子だったんですか」

そうつぶやいた直後、菜々はカウンターに突っ伏した。 
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