キスからはじまるエトセトラ
9、 釣り合いのとれる女

楓花が言葉を失い、 トレイを握る手にギュッと力を入れたのを見ると、 椿は目を細め、 紅茶をゆっくり口にした。


カチャッとカップを置きながら、「天馬はね…… 」と、 まるで彼が自分の所有物かのように親しい響きを込めて語り始める。


椿 「レベルが高いと言われていた私たち同期の中でも断トツだったわ」

チラッと上目遣いに楓花の様子を窺い(うかが)い、 彼女が呆然(ぼうぜん)とティーカップを見ているのを確認すると、 フッと薄く笑って話を続ける。


椿 「本当に彼は、 全てにおいて飛び抜けてた。 あの整った容姿は勿論だけど、 あの自信に溢れた豪快(ごうかい)な性格と行動力で、 いつもみんなの中心にいたし、 成績も優秀で、 誰も彼には構わなかった。あの頃、 周りにいた女子は、 誰もが一度は彼に恋をしてたと思うわ」


椿 「研修医時代もね…… 彼はどこの科に行ってもソツなくこなしちゃって、 すぐに先輩医師に気に入られるし、 ナースや患者からは迫られるしで、研修の途中からは、『(ひいらぎ)には男性患者しか受けもたせてはならない』って院長からのお達しが出ちゃって。 2年目からは医局同士が彼の奪い合いで、 『柊(もう)で』なんて言葉も出来たくらい、 いくつもの伝説を残したわ」

楽しそうに語る椿とは正反対に、 楓花の表情が(くも)っていく。


椿 「そんな彼がいつまで経っても彼女を作らないから、 ゲイ疑惑まで出てきちゃって。 だから私が聞いてやったの。『天馬って女より男の方が好きなの? 』って。 そしたら彼、『まさか、 女の子は大好きだよ。ただ彼女がいないだけ』って言うから…… 私が彼女になろうって思ったの」

楓花の肩が、 ビクッと動いた。


椿 「2年間の研修後も私たちは大学病院に残って、 2人とも消化器外科に所属して……他のどんな女よりも私が一番近くにいたし、 彼にふさわしいのは私だと思ってた」


椿はズイッと楓花に顔を寄せる。

椿 「ねえ楓花さん、 ちょっと遊ぶだけの相手ならまだしも、 結婚相手となると、 釣り合いが大事だと思わない? 」


『ちょっとだけ遊ぶだけ』に強いアクセントをつけて言われて、 楓花は理解した。

楓花 ( ああ、 この人は、 私が天にいの『ちょっと遊ぶだけ』の相手だって、 私では釣り合わないって言ってるんだ…… )


椿 「私の家って医者一族でね、 祖父の病院を父が受け継いで、 いずれ私がそれを引き継ぐの。 天馬もうちと同じだけど、 彼はお兄さんがいるから自由な身でしょ? だから私は、 彼に婿に入って貰おうと思ったの。 祖父が医師会繋がりで天馬のお祖父(じい)様と仲がいいものだから、 そのツテを頼ることにした」


楓花 「それじゃあ、 お見合いは…… 」

椿 「ええ、 私が祖父にお願いしてセッティングしてもらったの…… そして私と天馬は付き合うことになった」

楓花 「でも…… お試しって……」

その言葉を聞いて、 椿が首を(かし)げながらフフッと笑う。


椿 「始まりはお試しでも、 それが本気になったって可笑しくないでしょ? 私たちは結婚を前提に付き合うようになって、 体の関係も持った」


楓花 ( お試しで付き合っただけじゃなかったの? 本気の付き合いだったの? …… それは今も? )


耳を塞ぎたいのに、 聞きたくないのに…… 身体が動かない。
楓花は否応なしに耳に入ってくる言葉に打ちのめされた。


椿 「そして、 お互いの親とも顔合わせをして、 結納も間近に迫った頃、 彼が幼馴染の女の子を好きだから結婚出来ないって言い出した」

楓花 「……えっ?! 」

椿 「どういう気の迷いか知らないけれど、 どうしても駄目だの一点張りで、 結局婚約は解消。 私達の仲は医局でも公認で、 結婚式の仲人は教授に頼むつもりにしてたから、 天馬は医局に居辛くなって、 辞めざるを得なかった」


楓花 「そんな…… 」

椿 「彼は急な心変わりの理由を、『東京に行った幼馴染を忘れられないから』とだけしか教えてくれなくて…… でも、 あなたなら知ってるのかもね」


楓花 ( それは…… 私がキスしたから?)


椿 「その1年後に、 私は父の勧めた男性と結婚したけれど、 相手の浮気が発覚して、 たった1年半で破局。 でもね、 それは仕方がないの。 私が天馬を忘れられなくて、 夜の夫婦生活を拒むことが多かったし、 会話も殆ど無かったから。 看護師と浮気して子供が出来ちゃったって聞いた時は、 これでやっと別れられるってホッとしたわ」


楓花 ( この人は、 それ程までに、 天にいのことを…… )


椿 「 私ね、 今でも天馬に相応(ふさわ)しいのは私だと思ってる。 『柊胃腸科病院』は彼のお兄様が継ぐ。 そうなったら天馬は居辛くなるに決まってるわ。 私なら彼に『水瀬総合病院』の院長の座を与えてあげられる。……じゃあ、 あなたは? 」


楓花 「私は…… 」


椿 「あなたが東京で何をしてたかは知らないけれど、 今ここで喫茶店の手伝いをしてるってことは、 その程度の仕事だったってことよね? そんなあなたが、 天馬に何をしてあげられるの? あなたのせいで医局を去った天馬に、 何か与えてあげられる? 」


言葉を失い黙り込んだ楓花を満足げに見て、 椿はレシートを手に立ち上がった。

椿 「楓花さん、 男ってね、 初めての女を忘れられないものなのよ。 そして、 私も天馬の身体を忘れられないの」

それだけ言い捨てると、 ヒールの音を響かせて去って行った。



茜 「楓花ちゃん、 大丈夫? 顔色が悪いから、今日はもう家に帰って休んだ方がいいわ」

茜が楓花の肩を抱いてゆっくり立ち上がらせる。


楓花 「ううん…… 大丈夫」

そうは言ったものの、 その後は仕事に集中できず、 オーダーミスをしたりグラスを落として割ったりと失敗続きで、 結局は自分の無力さを再認識するだけとなった。


***


◯ 楓花の部屋

ベッドに入り、 天井をぼんやり見上げている楓花。


楓花 「最悪だ…… 」

楓花 ( 気分も最悪だし、 私も最悪…… )


スマホを手に取り、 時間を確認する。

午後5時18分

楓花 (本当なら、 今頃は天にいと…… )


今日は午後5時に天馬と駅前で待ち合わせてデートの予定だった。

楓花はどうしようかギリギリまで悩んだ挙句、 断りのメールを送ったのだった。


楓花 ( だって、 こんな気持ちのままじゃ、 会って何を話せばいいのか分からない)


スマホの画面を開いて天馬とのやり取りを見返す。

楓花 『ごめんなさい。 今日は気分が優れないのでキャンセルさせて下さい』

天馬 『分かった。 大丈夫なのか? 』

楓花 『大丈夫です』

天馬 『手術の痕が痛むの? 』

楓花 『違う。 大丈夫 』

天馬 『風邪を引いたの? 』


最後はやり取りをするのも辛くなって放置した。


楓花 ( 椿さんの言う通りだ…… )

楓花 「私には…… 何もない」


右腕を顔に当てて目を(つぶ)ると、 閉じた(まぶた)の下から涙が(こぼ)れて首筋へと伝って行った。


トントン


急に部屋の扉をノックされ、 楓花はビクッとした。

楓花 (茜ちゃん? )


楓花 「ありがとう! でも放っておいてくれて大丈夫だから! 」

楓花 ( 今はこの涙を見られたくない…… )


すると、 予想に反してドアがカチャッと開き、 楓花が「あっ!」と思っているうちに全開になった。


楓花 「…… えっ?!」

そこに立っていたのは、 他ならぬ天馬だった。
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