キスからはじまるエトセトラ
8、 私が彼の初めての女なの

◯ 柊胃腸科病院のナースステーション


土曜日の朝。

パソコンに向かい電子カルテで患者のバイタルサインのチェックをしている白衣姿の天馬。

ニコニコしながら鼻歌交じりで上機嫌な天馬を見て、 後輩の辻吉成(つじよしなり)医師が横からカルテを覗き込んで声を掛ける。


辻 「天馬先生、 上機嫌っすね。 何かいい事でもあったんですか? 」

天馬 「おお、 辻か。 …… 俺、 顔に出てる? 」

辻 「めちゃくちゃニヤケてます。 いつもクールな天馬先生のレアな微笑みが見れるって、 さっきからナースが入れ替わり立ち替わり覗きに来てるのに気付いてなかったんですか? 患者もナースも浮き足立っちゃうんで、 そういうの自重して下さいよ! 」


天馬 「そうか、 俺はニヤケてるのか……」
辻 「ほらっ、 言ってる(そば)から!」
天馬 「ハハッ」


ーー 自重しようったってなぁ…… そりゃあニヤけるだろ。


***


<< 天馬の回想 >>

ホテルから家まで楓花を送り届ける車内。

天馬が愛車の黒いメルセデスマイバッハを運転しながら、 隣をチラッと見て、 助手席に座っている楓花の手を上からそっと握る。

楓花が顔を赤くしながらキュッと握り返してきて、 天馬が「く〜っ!」と喜びを隠せない表情で、 口元を緩ませながら片手で運転を続ける。



楓花の家の前で車を停め、 ハンドルに両腕を預けながら、 天馬が彼女の顔を覗き込む。


天馬 「颯太…… 明後日の土曜日って時間ある? 」

楓花 「まだお店はお手伝い程度しか入ってないから、 茜ちゃんに頼めば早目に上がれるとは思うけど…… 」


天馬 「そうか、 それじゃあ、 デート出来るな」
楓花 「デート?! 」

天馬 「何を驚いてるんだよ。 さっき言っただろ、 最初からやり直すって……いいだろ? 」

楓花 「うん…… 楽しみ。 それじゃ、 おやすみなさい」


天馬 「待って! 」
楓花 「えっ?! 」

車のドアを開けて出ようとする楓花の腕を掴んでドサリと席に戻すと、 肩を抱いて口づけた。


真っ赤になって俯いた顔が可愛くて、 今度は額にチュッと短いキスをして、 至近距離から見つめ合う。


楓花 「もっ…… もう! 」
天馬 「ごめん、 俺っていきなり浮かれてるな」


楓花 「私だって…… 浮かれてるけど…… 」

最後の方は小声でモニョモニョと呟く彼女が可愛くて愛しくて……。


天馬 「ああ、 ヤバイ。 帰したくないな…… 」


強く抱きしめながら吐息と共に呟くと、 楓花も腕の中でコクンと頷いた。


天馬 「土曜日…… 楽しみにしてる」
楓花 「…… うん、 私も」


<< 回想終了 >>


***


パソコン画面を見つめながら、 再びニヤニヤする天馬。


辻 「ホントにどうしたんですか? まさか彼女でも出来たとか?! 」

天馬 「う〜ん…… そうだな…… お前は口が軽いから教えてやらない」

辻 「え〜っ、 そんなぁ! 」


パソコン画面をクリックしてカルテを確認しつつ、 目尻を下げて、 天馬が口を開く。


天馬 「辻、 お前、『源氏物語』って知ってるか? 」

辻 「馬鹿にしないで下さい、 それくらい知ってますよ! 光源氏が数々の女性と浮名を流す…… 要は平安時代のラノベですよね? 」


天馬 「ハハッ、 ラノベか。…… 俺は光源氏が『紫の上』を選んだ気持ちが良く分かるんだよな……」

辻 「ロリコンっすか?! 」


天馬 「俺は理数系だから古典は苦手だけどさ、 光源氏の気持ちで作文を書けって言われたら、 今なら100枚くらいスラスラと書き上げる自信がある」

辻 「えっ? どういう事ですか?! 」

それには天馬は答えず、 パソコン画面を閉じて立ち上がると、 意味深な笑顔だけを残してナースステーションを後にした。




病棟の廊下を病室に向かって歩いていると、 向こうから水瀬椿(みなせつばき)が歩いて来た。

椿は黒いワンピースの上に白衣を羽織り、 首からは天馬同様、 聴診器をぶら下げている。

モカブラウンのフワッとしたロングヘアーは、 後ろでバレッタで留められている。


天馬 「水瀬先生、 昨夜は当直お疲れ様でした。 緊急オペが入ったって聞いたよ。 (たん)のう摘出(てきしゅつ)術だって? 」


椿 「うん、 ずっと痛みを我慢してたみたいで黄疸(おうだん)が出てたし、 ビリルビン値も高かったから。 腹腔鏡(ふっくうきょう)で」

天馬 「そうか。 あとは俺が診ておくよ。 いつもバイトに来てもらって悪いな。 それじゃ、 ご苦労様」

そのまま立ち去ろうとする天馬を、 椿が呼び止めた。


椿 「聞いたわよ、 天馬の幼馴染が盲腸(アッペ)で入院してたって。……楓花さん? 」

天馬 「…… ああ」

天馬は気まずそうに表情を曇らせる。


椿 「あの事ならもう気にしてないわよ。 楓花さんはこっちに帰って来たの? 独身? 彼氏は? 」

天馬 「…… 独身だ。彼氏は…… 俺たち、 付き合うことになった」


椿は一瞬驚いて言葉を詰まらせたが、 すぐに明るい笑顔を浮かべた。

椿 「…… そう、 良かったじゃない、 おめでとう! 」

天馬 「……ありがとう。 その…… いろいろ悪かったな」


椿 「何言ってるのよ! 最初にお試しでって言ったのは私だし、 もうとっくに吹っ切ってるわよ。 だから結婚だってしたんだし」

天馬 「こんないい女を嫁にしといて浮気するなんて、 お前の元旦那も見る目が無いな」


その言葉に椿は自虐的な笑みを浮かべ、 ボソリと小声で呟く。

椿 「…… (あなたもね) 」

天馬 「えっ、 何? 」

椿 「なんでもない! 離婚したことは後悔してないし、 今は仕事が楽しいからいいの」


天馬 「大学病院とここの掛け持ちはキツいんじゃないか? もううちのバイトは辞めたって…… 」

椿 「辞めないわよ」

低い声音で被せるように言われて、 天馬が「えっ? 」とたじろぐ。


椿 「あっ、 ほら、 この病院だと大学病院とは違って緊急性の高い症例も沢山診れるし、 オペもどんどん経験させてもらえるから助かるのよ。 天馬の腹腔鏡の手技はピカイチだから、 父の病院に入るまでは、 そばで学ばせてよ」

天馬 「そうか…… 」


椿 「それとも…… 週末だけとはいえ、 自分が振った女が同じ職場で働いてると目障りかしら? 」

天馬 「目障りなんて…… 」

椿 「それじゃ、 この話はこれで終わり。 じゃあね! 」


天馬の横を通り過ぎてエレベーターへと歩く椿の表情は、 能面のように冷ややかだった。


***


◯ 喫茶 『かぜはな』


チリンと入口のベルが鳴り、 カウンターの外でトレイを持って振り返る楓花。


楓花 「いらっしゃいませ! 」

入口に立っているのは、 病院帰りに立ち寄った椿。
ウエーブのかかった髪を下ろし、 しっかり化粧もされている。


楓花 「カウンター席がよろしいですか? それともテーブル席…… 」

椿 「私、 このお店の常連よ。 いつも窓際のテーブル席って決まってるんだけど」

刺々しい口調で言われ、 楓花が顔を強張らせる。
保育園で保護者の標的になった経験から、 こういう物言いをされると緊張してしまう。


楓花 「あっ、 失礼致しました。 それでは…… 」

茜 「あっ、 椿さん! ごめんなさいね、 気付かなくて。 こちらへどうぞ」

戸惑っている楓花を庇うように前に出ると、 茜はニッコリ微笑んで、 椿を窓際の2人席に案内する。


楓花 (『椿さん』?! …… そう言えば、 なんとなく顔に見覚えがある。 お兄ちゃんの結婚式で天にいの隣に立っていた…… 水瀬椿さんだ )


椿は席に座ると、 茜に向かってニッコリ微笑む。

椿 「いつものロイヤルミルクティーを、 楓花さんに持って来ていただけるかしら? それと、 申し訳ないけれど、 少し彼女のお時間をいただくわ」

茜は「えっ? 」と困惑した表情を浮かべ、 まださっきの場所で立ち尽くしている楓花を振り返った。


***


◯ 喫茶 『かぜはな』の窓際の席


椿は目の前のロイヤルミルクティーを一口飲んで、 カップをカチャリとソーサーに戻すと、天然木のアンティークチェアに深く背を預け、 腕を組む。


楓花 ( 私に話があるっていうことは…… 天にいのことだよね? まさかもう私たちのことを知ってるの? )

悪いことをしたわけではないのに、 なんだか後ろめたい気持ちになってしまう。

楓花は胸にシルバーのトレイをギュッと抱きしめて俯いた。


椿 「天馬から聞いたわ。 東京から戻って来たんですってね」
楓花 「えっ?! 」

椿 「さっきまで会ってたから」

椿が切れ長の目でチロッと楓花の顔色を窺う。


椿 「私のこと、 天馬からなんて聞いてるの? 」

楓花 「お見合いして…… お試しでって約束で付き合ったって…… 」


椿 「…… そう。 それだけ? 」
楓花 「えっ? 」


椿は胸の前で組んでいた腕をほどき、 テーブルに手をついて前のめりになると、 楓花を真っ直ぐに見据えて言った。


椿 「私と天馬は婚約してたの。 そして…… 彼の初めての相手は私なのよ」

楓花 「えっ…… 」


椿 「私が天馬の初めての女なの」
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