幼馴染でストーカーな彼と結婚したら。
 私はその時、健一郎と初めてキスをしたときのことを思い出していた。
 あの時のことを思うと、健一郎はそういうことに慣れていたように思う……。私ははじめてだったからよくわからないけど……。

(桐本先生ともキスしたよね……。それどころか、もっと先まで……)

 頭の中でぐるぐると訳の分からないことを考えてしまう。受付業務を続けながら、内心はドロドロとなにかグレーの気持ちが轟いていた。

(はぁ……もう嫌だ。帰りたい…。今すぐ帰って寝たい)

 学会は土日に開催されるため、今日は本当は私は休日なのだ。それに、連日の学会の準備で疲れているし、寝不足も続いている。思考が変になるのも仕方ない。ただ、疲れているだけだ。

 その日、時間が過ぎるのが、とんでもなく長く感じた。
 ため息が自然と出る。ただでさえも、先生ばかりの学会の最中、事務員は気を遣うのだ。

 森下先生がほかの講演を聞きに行って、そのあと戻ってきたかと思うと、
「はい、忙しいのわかるけど、一時間! 行くよ!」
と言い、私の手をとる。

「え?」
「聞くんでしょ! 佐伯先生の講演! 私、タイムキーパーになったしちょうどいいわ!」

 そう言われて思わず足を止め、首を横に振った。
 健一郎の講演なんて、今、聞きたくない! どうせ意味わかんないだろうし!

「って、全部英語ですよね!? 私、聞いてもちんぷんかんぷんなんですけど」
「それでいいのよー。とりあえず、一緒にタイムはかっておいてくれれば」

 そう言って、意外に力のある森下先生は私を引き摺って大きな部屋に入り、会場後ろに設置されたタイムキーパー席へ移動すると、私を隣に座らせた。

(あぁ、森下先生、意外に強引……)

 そうこうしていると、真壁くんが申し訳なさそうな顔でこちらにやってくる。

「俺も一緒にいてもいいですか」
「え? 真壁くん、エスコート役でしょ」

 真壁くんは健一郎と講演をするハリス先生の担当でもあった。

「佐伯先生がうまくやってくれてるし、大丈夫。でも、もう、満席で席がなくて。俺も聞きたいから」
「え? もう?」

 見渡すと、確かに広い部屋はもう満席だった。さすが世界で有名な先生だ。
 そんな先生と一緒に講演するなんて、健一郎は大丈夫だろうか……ともふと思った。

「ハリス先生は格が違うわー。私もご挨拶だけさせてもらったけど、テレビとかと一緒で優しそうな先生よね」
「話しやすい方でしたよ」

 森下先生が言い、真壁くんが笑う。
 そんな話をしていると、講演が始まった。

 ハリス先生は優しそうな顔立ちをしているけど、世界の権威だけあって、気迫が伝わってくる気がした。そして、演台に立つと一緒に演台にやってきた健一郎に何かいい、しっかり前を向き、全体を見渡す。

「I’m pleased to have this opportunity to speak you today!」

 元気なあいさつで始まった講演は、すぐに難しい英語のオンパレードになり、私にはもちろんそれが理解できるはずがなかった。

「なんとなくもわかんないわ……」

 今回の講演は、パネルディスカッションに近い形式だという話とは聞いていた。一時間のほど、症例らしき話が終わって、
「What do you mean by……?」
 健一郎が時折、質問を加える。

(おぉ、なんか質問してる。当たり前だけど、健一郎も英語喋れるんだなぁ……)

 なんてことを冴えない頭でぼんやり考えていた。

―――ちょっと、いや、結構かっこいいと思う。

 『It’s 英語マジック』と、ボキャ貧の英語しか出てこない私は小さくため息をつく。この差は決して埋まることは無い。埋めたくもないのだけど……。

 そして、途中から講演の中心が健一郎に代わったものの、健一郎も「I’d like to show you the date from……」と英語で話し続けるので全く意味が分からない。
 でも、健一郎が話すと、ハリス教授が頷いて聞いていて、ハリス教授が時折する質問に、健一郎が答えていた。

 会場も静まりかえり、メモを取る音や、内容をPCに入力する音だけが響く。
 それだけ、内容も興味深いものなのだろう。私にはまったくわかんないけど。

 私は、ふと、先ほど健一郎と話していた桐本先生に目をやる。彼女も真剣な表情でメモを取っていた。
 これもまた当たり前なのだろうけど、彼女は、この英語のやり取りも分かるし、症例の内容も分かるのだろう。

(……私とは大違いだ)

 胸がずきんと痛んだ。
 私と健一郎の差に、そして、彼女と私の差に……。
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