嫁入り契約~御曹司は新妻を独占したい~
「あなたは、今夜は予定ないの?」


詩織が去って玄関のドアが閉まってからも、お母さんは靴を脱がずにたたき立ったままだった。


「予定? 全然ないけど……」
「長瀬さんって人が来てる」


吸ったばかりの息を、グッと喉を引いて飲み込む。


「、え?」


長瀬さんって……。
あの、社長秘書の?

その人以外に、長瀬という知り合いはいない。けど……どうして?


「一華を待ってるから、って」


まるで私の心を見透かすように、お母さんは答えた。
真っ黒な瞳に、優しい光を宿して。


「……えっ……」


声が震えた。
待ってる、って……まさか、薫さんが?


「行っておいで、一華。ちゃんと話してきなさい」


駄々っ子を諭すような優しくて厳しい口振りで、お母さんは戸惑いを隠せない私を包み込むような、柔らかい眼差しで見た。


「で、でも……」


私は逡巡する。

だって、今更行ってどうするの? なにを話せっていうの。

契約解除の申し出をしてからおよそ一か月。

時々、まだ胸の中にぽっかり空いている大きな落とし穴のような暗がりに落ちて、あの地に足がついていないような、夢みたいな生活を思い出し、心がズキンとするけれど。

ようやくこの穏やかで当たり前な日常に感謝して、新しい道に進めるような期待が持てるようになった。

それなのに。


「このままだと、きっと後悔するわ。忘れられないよ、ずっと」


勘のいいお母さんは、やっぱり私の心の機微を読むように言った。

このまま前に進んでも、ずっと心に引っかかったままなのなら。
行ってきちんと気持ちを伝えた方が、新たな道にも進むことへの励みにもなるかもしれない。
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