きつねさんといっしょ!
  男、というかきつねが化けたイケメンが部屋を飛び出して、一人残された私はどっと疲れに襲われてしまった。
 その場にへたりこむ。
 引っ越し初日から何でこんな目に遭わなければいけないの?
 私は内からこみ上げてくるものをどうにか堪える。じきに戻ってくるであろうきつねに泣いているところを見られたくなかった。
 口が悪く粗野な感じのするあいつに弱さを見せたくない。
 そんな真似をしてもし付け入る隙を与えたら、どんな目に遭うかわかったものではない。
 ポテトチップスを食べられただけでも十分ショックだというのに……。
 ちょっとだけ気が緩む。
 私はガラステーブルの上の空の袋を片づける気になれず、またその下に置かれたティッシュで涙でにじんだ目を拭く気にもなれなかった。
 着ている灰色のトレーナーの袖で代用する。
 ……寒い。
 身体は熱く感じているのに頭では逆のことを知覚していた。トレーナーと青いジーンズという格好では薄かったのだろうか。
 しんと静まった部屋に通りを走る車の走行音がいくつか紛れ込む。
 小鳥のさえずりや遠くでほえる犬の声。誰かが飼っているであろう鶏の鳴き声。勢いよく吹かしたバイクのエンジン音。
 そよりと風が流れていく。
 木々の枝が揺れる微かな音さえも聞こえるほど静かだった。
 そして、誰かの足音。
 小走りでまっすぐに近づいてくる。
 ここの防音はどうなっているのだろうと軽い不安にかられたが、それを打ち消すよりも早く金属製のドアが開く音がした。私は廊下の方に背を向けたまま反対側の袖で目を拭く。
 きつねが帰ってきた。
 振り返って出迎えなければならぬ義務は微塵もない。
 私は唇を噛んだ。
 足音と布のこすれる音、ビニール袋が揺れる音……。
 ん?
 ビニール袋?
 足音がすぐ後ろで止まる。
 ビニール袋が落ちる音がした次の瞬間、きゅっとあたたかいものが私の背中を包んだ。
 そっと腕を回される。
 袖にフリルのついた黒い袖が見えた。
 ……あれ?
 誰?
 耳心地の良い、穏やかで少年のような声がささやく。
「うん。大丈夫大丈夫」
 知らない声だ。
「うん。何も不安はないよ」
「……え?」
 私が身を離そうとすると相手は全く抵抗しなかった。私は立ち上がり、声の主に振り返る
 相手も腰を上げた。。
 胸がドキドキしている。
 寒さはもうない。
「うん。大丈夫そう」
「えーと」
 私は言葉に迷った。
 目の前にいたのはメイドさん?
 背は私より少し高い。やや丸みのある顔の輪郭。バランス良く配置された目と鼻と口。長い栗色の髪をツインテールにしている。前髪のちょっと上には白い髪飾り。
 私より大きいけれど小柄な体躯に黒いメイド服。
 フリルの沢山着いたなかなか可愛らしいデザインだ。
 彼女はこちらに微笑んでいる。年齢は二十歳くらいか。いや、もう少し若い?
 服もそうだが顔も可愛い。
 美少女だ。
 美少女メイドさんだ。
「えーと……」
 再度言葉を探してみる。
「だ、誰?」
 状況に頭が追いついていない。場違いではないけれど、これっぽちも気の利かないセリフだ。自分の語彙の足らなさを改めて痛感する。
「うん。僕はミトだよ」
「僕?」
「うん。で、君は?」
「い、飯塚小梅です」
「うん。素敵な名前だね。ご飯に合いそう」
 ……そうですね。
 よく言われます。
 という言葉が喉まで出かかったのを無理矢理飲み込む。
「うん。ところで、君は新しく入ってきた人だよね?」
 私はうなずいた。
「うん」が言葉の頭につくのはこの人の口癖なんだろうか。
「今日からお世話になります……」
「うん。こちらこそ」
 ……どうしよう。
 何だかめんどくさい。
「うん。夏彦さんに挨拶はした?」
「しました」
「格好いい人でしょ?」
 ミトさんの目が妖しく光る。
 赤い光だ。
 あ、今、「うん」がなかった。
「す、素敵な人ですね。優しそうですし」
「うん。そうでしょ。けど気をつけてね」
「……」
 何を?
 ミトさんは私が応えずにいると首を傾げた。
「……お返事は?」
「き、気をつけます」
 ヤバそうなので適当に返した。
 ミトさんが満足げに大きくうなずく。
 よし、セーフ。
 と、思ったら……。
「もし夏彦さんに何かしたら……」
「何かしたら?」
 ミトさんが答える代わりに不適な笑みを浮かべる。
 ていうか、目が笑ってないんですけど。
「……」
「うん。わかればいいんだ」
 この人、敵に回したらダメなタイプだ。
 心の中でつぶやく。ミトさんの笑みに合わせて私もにっこりしたつもりではいるけど頬が引きつっていたかもしれない。
「うん。それで君はどうして泣いていたの?」
「な、泣いてなんかいません」
「うん。僕にはそういうのわかるから、強がらなくてもいいよ」
 わかるって……?
 私が頭の上に「?」をいくつか並べるとミトさんが説明してくれた。
「僕ね、君みたいに波長の合う人なら遠くからでもそういうのがわかるんだ」
「波長? 遠くからでも?」
「うん。僕たちの能力みたいなものかな。姉さんは僕と違う使い方をしてるけど」
 お姉さんがいるんだ。
「うん。で、どうして泣いていたの?」
 「だから、泣いてませんって」
 ミトさんがため息をついた。
「うん。素直じゃないんだね。なら、こうしようよ。僕の正体を見せてあげるから、君も教えて」
「あ、えっ、何を……」
 言い切らないうちにミトさんが一歩下がった。
 ポンッ!
 音とともにミトさんの姿が消えた。
 代わりに現れたのは……。
 
 
 
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