政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
今井家と由梨
 ウィーンウィーンと規則的な音を立てて、紙を吐き出し続けるコピー機に手をついて、今井由梨は窓の外を眺めている。
 暖房がフル回転してぽかぽかと暖かいオフィスの中とはうってかわって、街は雪景色である。
 もしこれが由梨が生まれた街だったとしたら、これだけ雪が降れば交通機関は止まり大混乱だ。
 けれどこの街の人たちは皆雪用のブーツを履き平気な顔をしてオフィス街を歩いている。
 由梨がこの街に来て、まる五年が経つ。
 ぼたもちのような大粒の雪が音もなく後から後から落ちてくる様子はもう見慣れたけれど、体の芯まで染み込んでくるような寒さだけはいつまでたっても辛い。
 由梨は、帰り道のことを考えて少しだけ憂うつになった。
 ここ今井コンツェルン北部支社の秘書室は週明けの午前中にもかかわらず、どこかのんびりとした雰囲気である。
 由梨と向かい合わせのディスクに座る長坂先輩はさっきからメールのチェックをしているが、マウス片手に同じ画面を行ったり来たりさせているだけだし、隣に座る後輩の西野奈々は少し前にトイレに行ったきりしばらく戻ってこない。
 由梨とて、さして急ぎではない会議資料のコピーをしている。
 窓際の席に座る勤続三十五年の蜂須賀室長にいたってはさっきからデスクに頬づえをついて、ウトウトと船を漕いでいる。
 時折がくんと頬から手が外れ、慌てて目をこすっている様子がおかしくて由梨はくすくすと笑った。
 もっともこの様子は嵐が去った後の静けさのようなもので、月末に当たる先週末までは殺人的な忙しさだった。
 特に今井コンツェルンは大手企業では珍しく、決算期を二月においている。
 先月はその二月末にあっていたから尚更だった。
 皆休日返上で働いたのだから、今日くらいはのんびりとしていても許されるだろう。
 そしてもう一つ。
 この秘書室に覇気がない理由がある。
 ここの主にあたる社長、副社長の不在である。
 しばらくすると、コピー機がピーと鳴って出来上がりを由梨に知らせる。
 由梨が屈んで資料を取り出したとき、パタパタと廊下を走る足音が聞こえた。
 この足音は奈々だ。
 廊下は走らないと長坂に学生のように注意される様子が目に浮かび、由梨は微笑んだ。
 果たして予想どおり、秘書室のドアがやや乱暴に開かれて奈々が息を切らして入ってきた。
 そして眉をひそめた長坂が言葉を発するより早く口を開く。

「ふ、副社長、お戻りです!」

 彼女の言葉に、室内にいた全員が目を丸くする。

「えぇ!?お戻りは明日だろう?」

 一番先に答えたのは室長だった。
 先ほどまでの眠気はどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。
 副社長は、週末から東京へ行っていて戻りは明日の夕方の予定だったはずだ。
 秘書室に連絡もなく突然帰社するとは何か緊急な事態でも起こったのかと部屋に緊張が走った。

「はい。ですが、先ほどタクシーで玄関に到着されまして…。今は、営業部と経理部を回っておられます。」

 奈々がその情報をいち早くキャッチできたのはここ最上階のトイレを使わずに、下の階へ行っていたからに他ならない。
 奈々は入社二年目で秘書室に抜擢された優秀な社員だが、同期と隔離されたこの空間をやや窮屈に感じることがあるらしい。
トイレだけは営業部や総務部がある下の階のものを使っていて、それについても長坂によく注意を受けていた。
 けれど、流石の長坂も今回ばかりはそれについてうるさくいうつもりはないらしい。

「予定変更なんて聞いてないわ、どうしちゃったのかしら、殿は。」

 そう呟いてそれでも上司を迎えるべく立ち上がった。
 今井コンツェルン北部支社の副社長、加賀隆之は影で一部の社員から"殿"と呼ばれている。
 それは彼が古くにこの地を治めていた大名につながる名家、加賀家の御曹司だからだ。
 この街の人間ならば中学生でも知っている。
 そして今井コンツェルン北部支社の実質的なトップを務めるキレ者だ。
 彼は出社時、大抵真っ直ぐに役員室へは来ない。
 下の階で営業部、経理部などへ顔を出し社員を励まし激励し、ときに叱咤するなどコミュニケーションを取ってから役員室へ上がってくる。
 だからこそ、急な彼の帰社を奈々が先に伝えられたのだ。
 とはいえあまり時間はないと由梨が自分のデスクへ戻ったとき、秘書室のドアが再び開かれた。
 副社長である加賀隆之が帰社した。
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