政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
由梨の告白
 とっぷりと日が暮れたオフィス街を横目に"社長"のスケジュールを社内ネットワーク上で確認してから由梨はパソコンをシャットダウンさせた。
 定時をとうに過ぎた秘書室には誰もいない。
 随分前に今日は先に上がっていいと隆之が言いに来て、それを合図に皆帰って行った。
 けれど当の本人はまだ社長室にこもったまま、未だ帰る気配はない。
 由梨はドキドキとうるさい胸の音を聞きながら、静かに立ち上がった。
 社長室へと続く無機質な茶色いドアは、無言で由梨と隆之の間を隔てている。
 まるでお前はこちら側へは来るなとでもいうかのように。
 由梨はそのドアの前まで行くと深く長い深呼吸をしてからやや強めにノックをする。
 静かな室内にコンコンという音が響いた。

「…どうぞ。」

 少しの間の後、返事が返ってきた。
 それを聞いてから由梨はゆっくりとドアを開けた。
 社長室は、隆之の性格を表すかのように簡素で飾り物がない。
 けれど必要なものが必要なところに置かれていて、とても実用的なのだ。
 その静かな室内の中央の机に隆之は座っていた。
 現れた由梨を見て隆之は驚いたように手を止めている。
 こんな時間に用があるのは長坂か蜂須賀くらいだと踏んでいたのだろう。

「…社長。まだ業務中でしょうか。」

 緊張しながらも由梨は問いかけた。
 隆之は、いや、と言ってノートパソコンを閉じた。

「もう、終わりだ。…今井さんはどうしたの?」

 隆之が会社では旧姓のままを通している由梨の名字を呼ぶ。
 二人きりなのに。
 そこに一抹の寂しさを感じながらも由梨は自分を奮い立たせるように右手をぎゅっと握りしめた。

「…これからどこかに行かれるのですか。…隆之さん。」

 隆之が驚いたように目を見張る。
 会社で、由梨が彼を名前で呼ぶのは初めてのことだ。
 どう答えて良いのか分からずに戸惑っているのが空気を通して伝わってきた。

「…飲みに行くのですか?…女の人と?」

 畳み掛けるように由梨は問う。
 ドキドキと胸が鳴った。
 彼が背にしている窓から見下ろすネオンの街は隆之をあの手この手で誘うだろう。
 彼の心の隙につけ込んで、彼を連れて行ってしまう。
 由梨は首を振った。

「行かないで、隆之さん。」

「由梨…?」

 隆之が驚いた表情のまま立ち上がる。
 北部支社のトップの為にある座り心地の良い椅子がガタンと音を立てた。

「行かないでって言ってもいいでしょう?…私、隆之さんの奥さまなんだもの。」

「由梨…。」

 隆之が大きな机を回り込んで由梨に歩み寄る。
 由梨はドアを背にして通せんぼをするように立ちはだかって、後ろ手にガチャリと鍵を閉めた。

「みんな、隆之さんが毎晩女の人と飲んでいるって言ってるわ。」

 声が震えて、涙が溢れた。

「行かないって言うまでここを通さないから。」

 互いの香りを共有するくらいまで近くに来て隆之は由梨をじっと見つめた。

「…行って欲しくないのか。…なぜ?…答えは出たのか。」

 隆之のアーモンド色の瞳が自分を捉えていることに由梨はぞくぞくするほどの喜びを感じた。

「…隆之さんは、私がどちらを選んでも私が困るようなことにはならない、その為にはなんでもするって言ってくれました。あれは本当ですか?」

 由梨は挑むように隆之を見上げる。
 隆之も由梨の視線から逃げることなく頷いた。
 その瞳は強い光を湛えている。

「約束するよ。君が望むようになんでもする。…言ってごらん。由梨は、どうしたい?なにを望んでいる?」

由梨の瞳から熱い涙が溢れて頬を濡らした。
 由梨は震える唇を懸命に開く。
 
「わ、わ、私は…。私、…。」

 感情が昂って、心が熱いものでいっぱいになった。
 うまく言葉を紡げない。
 けれど自分で、自分の口で、どうしても言わなくてはいけない。
 隆之は急かすことなく、静かな眼差しで由梨を待ってくれている。

「わ、私は、…た、隆之さんが、…隆之さんが、ほしい…。」

 絞り出すように言った由梨の言葉に、隆之が息を呑む。
 生まれて初めて由梨が本当に自分の意志のみに従って、希望を言った瞬間だった。

「由梨…。」

「た、隆之さんが裏で画策をして私に結婚を承諾させたというなら、そうかもしれない。それからそのあと、わ、私が、た…隆之さんに恋をしてしまったのも、何もかも隆之さんの、け、計画通りだったのだと思う…。だってそうされなかったら、私は隆之さんのことをそんなふうには見ていなかったんだもの…。」

 由梨は背の高い隆之を下から見上げる。
 アーモンド色の瞳が揺れている。

「わ、私は…な、なんの経験もなくて…恋をしたことすらなかったのよ…。た、隆之さんみたいに素敵な大人の男の人に優しくされて…好きにならないわけがないじゃない…!」

 由梨は、一旦言葉を切って呼吸を整える。

「隆之さんはずるいわ。い、いまさら…今さらあれは作戦だったから、よく考えろなんて言われても…。」

由梨は首を振る。
 大粒の涙が散った。

「そ、そんなこと言われても…私は、私はもう、貴方のことを好きになっちゃったんだもの…!今さら…今さら元には戻れない…!」

「由梨!」

 低い声が熱く由梨の名を呼んだ。
 そして同時に大きな腕が強い力で由梨を包み込んだ。

「考えても、考えても、答えなんて出ないわ!わかるのは隆之さんを知らなかったあの頃の私にはもう戻れないということだけ…。隆之さんが好きなの、誰にも渡したくないの…。」

ひっくひっくとしゃくり上げながら由梨は隆之の腕の中で泣き続けた。

「他の(ひと)のところになんて行かないで。私の側にいて。ずっと、ずっと…。」

 隆之の上等のスーツを由梨の涙が濡らした。
 すがりつく由梨の手がシャツに皺を作った。
 
「な、なんでも…するって言うなら、…私を…私を隆之さんに夢中にさせた責任を取って!ずっとずっと私の旦那様でいて…!!」

 最後は叫ぶように言った由梨の思いを隆之は熱い胸で受け止める。
 ひっくひっくと泣いて自分の力で立っていられないくらいの由梨を腕に抱えて強い力で抱きしめた。
 
「…わかった。」

 由梨の耳に隆之の低い声が届く。
 その声は少し震えていた。

「由梨、愛しているよ。俺はずっとずっと君のものだ。君も…君も、俺のものだ…永遠に。」

 力強く誠実な声で隆之が誓う。
 そして少し体を離して至近距離で由梨を見つめた。
 その視線に由梨は震えるほどの喜びを感じる。
 あの狼の瞳がそこにあった。
 あぁやっぱり、自分はこの瞳に囚われたのだと強く思う。
 もう逃れられない。
 由梨は自分を見つめる瞳に吸い寄せられるように背伸びをする。
 そして形のいい薄い唇に、そっと口付けた。

「ん…。」

 見た目より柔らかいその感触を少し楽しんだあと、ペロリと自分の唇を舐めてみる。
 初めて自分からしたキスの味は、少ししょっぱい。
 けれどそれはとても幸せな味だと思う。
 生まれて初めて由梨が心から欲して手に入れた、キスの味だからだ。
 由梨からの突然のキスに少し驚いたように瞳を開いている隆之を見て、由梨はにっこりと微笑んだ。

「隆之さん、大好き!」
< 61 / 63 >

この作品をシェア

pagetop