結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
過去と未来


スマートフォンの地図を頼りに見知らぬ土地へ向かうと、尚さんが先に来ていた。


研究日という名の休みだった尚さんは、仕事終わりで駆けつけた私に近寄った。


「お疲れ」

「お疲れ様です。えっと、それでここは?」


吹き荒れる強風に髪が乱され、視界が阻まれる。

髪を手で押さえ、目の前に佇む広大な敷地に尚さんと一緒に視線を向けた。


「ここは俺が来年開院するクリニックの土地だ」

「え?」


辞めることは知っていたけど、まさか独立するなんて、知らなかったし思いもしなかった。

驚き、尚さんの顔を見上げると、建物を見つめる瞳が夕日と相まってキラキラ輝いて見えた。


「俺の夢は自分の病院を開院することだったんだ」

「話してくれたこと、なかったですよね?」

「悩んでいたからな。今の病院には杏がいるし、名医の院長の元で勉強したいことも多かったから」


尚さんが大学病院を辞めて当院に来たのは院長のもとで勉強したいから、ということも初めて知った。

でもそれより問題なのは……


「私のせいで夢を諦めようとしていたんですか?」


私を理由にしないで欲しいと暗に伝えると、尚さんは困ったように微笑んだ。


「同じ職場で働けた方が、杏が何も話してくれなくても杏の身の回りに起きていることを知ることが出来るだろ?」


言われてハッとした。

今回の日沖さんとの一件だけでもそうだ。

尚さんの言う通り、私はなにひとつ話そうとしなかった。


「すみません」

「いや。謝る必要はない。なんでも話せって方が無理だし、話したくないことだってある。俺だってそうだ。杏を巻き込みたくなくて、家のことを黙っていた。ただ、俺は自己中だから、杏のことはなんでも知っておきたいんだ」


尚さんは困ったように微笑むと、目の前に広がる土地に目を向けた。


「杏。ここで一緒に仕事しないか?杏の技師としての技術と、杏と一緒にいる時間が欲しい。俺はいつでも、どんなときでも杏と一緒にいたいんだ」


『どれだけ好きか証明してやる』と言っていたのはこのことだったようだ。

少し、いや、だいぶ重いし、束縛が強いけど、好きなひとからの気持ちだととても嬉しい。

でも、私は今の病院を辞めるつもりはない。

日沖さんの件では先輩方の優しさに救われ、大事にしてもらった。

先輩方から教わりたいことだってまだまだたくさんある。


「その申し出はお断りさせていただきます」

「即答か」


尚さんが切なげに微笑んだので、言葉を付け足す。


「尚さんが辞めるっていう話しは尚さんからも、古河さんからも聞いていましたから」


あえて古河さんの名前を出すと、尚さんはひとつ頷き、敷地内に停めていた車に私を乗せ、自宅マンションに着くまでの間、古河さんがなぜ尚さんの転職を知っているのかを教えてくれた。


「古河さんは嶋津家の財産の相続人なんだ」


戸籍上の繋がりもなく、他人の古河さんがなぜ相続人なのか。

それは古河さんが介護した尚さんの祖父母の意思だと言う。


「俺の夢を知っていた祖父母は、遺産の相続人を元々俺に指名していたんだ。だが、祖父が先に他界し、残された祖母は自宅での療養を希望。介護などしたことなかった母は無理だの一点張りで、自宅療養するならプロに任せたいと言い出した」


そこにやって来たのが古河さんだった。

古河さんは明るくハキハキしているから、自分の意思の強い尚さんの祖母と馬が合い、さらに洞察力に優れていた祖母は古河さんが尚さんに想いを寄せていることに気付き、密かに応援し始めた。 

でも煮え切らないふたりを見て、祖母は最後に最大の切り札を出した。


『遺産の相続人を古河さんに』


看護師である古河さんなら医師である尚さんを支えてくれると考えたこともある。

それはご両親も納得しており、最期まで看てくれた古河さんを嫁に貰うつもりでいた。

ただ、このことを尚さんだけが知らず、古河さんは遺産関係なく、尚さんに自身のことを好きになってもらいたかったので、自分からは告白をしなかった。

ヤキモキしている間に遺産相続の期限が迫ってくる。

たまりかねてご両親が尚さんに結婚を勧めたところ、結婚したい女性がいると聞かされた。

ハナから古河さんだとばかり思っていた両親は、突然現れた私の存在に困惑。

そして古河さんに連絡し、尚さんに告白するよう伝えた。

古河さんはかなり悩んだらしい。

悩んだ結果、尚さんに遺産のことは話さずに告白しようとしたのだけれど、尚さんは相続の件を私が挨拶に行った後にご両親に聞いてしまった。


「どうして杏じゃダメなのか。その理由を教えてもらうために何度も足を運んでようやく聞けたんだよ。もっとも、知ったからって結婚相手を変えるつもりはなかったから、そこからどうするのか、親を含めて考えていかなきゃならなかったんだ」


相続の期限は決まっている。

古河さんがどのような行動に出るのか、ギリギリまで待とうと言う両親と、相続したいならすればいい、と言う尚さん。

結果、ご両親に「どうするの?告白するの?しないの?」と追い詰められた古河さんがようやく告白する気になったのだけれど、尚さんの気持ちは変わらず。

その足で古河さんと尚さんは弁護士事務所を訪問し、相続放棄の書類にサインした。


「相続人や遺言書で遺産を取得するように指定されていた人全員が同意すれば、遺言書とは違う内容で遺産分割をすることが可能なんだ」


尚さんはそう言うと、車から降りてマンションの部屋に入り、弁護士事務所の封筒を見せてくれた。

それは先日、目撃したそのもので、ここに繋がっていたのかと納得した。


「でも、ご両親は私でいいんですか?古河さんのことを気に入ってらっしゃるんですよね?私でいいんですか?納得されたんですか?」

「もちろん」


封筒を片付け、トレンチコートを脱いだ尚さんに聞くと、簡単に答えられて、私もコートを脱ぐよう指示された。

聞きたいことはまだある。

それでもとりあえず指示された通り、コートを脱けば、尚さんがハンガーに掛けてくれた。


「ありがとうございます」

「ん。それよりソファー座って。飲み物はコーヒーでいいか?それとも先に食事にするか?」


キッチンに入ろうとする尚さんを急いで止める。


「先に話しを聞かせてください。古河さんのこと、ご両親は本当に納得されたんですよね?その詳しい話が聞きたいです。話が先がいいです」


はっきりと意思を示したことに尚さんは少し驚いた様子だったけど、すぐに満足そうに微笑み、ソファーに腰掛けた。

ポンポンと隣の席の部分を叩かれたので、その位置に素早く腰を下ろす。

すると尚さんの手が私の頭に触れ、優しく撫でられた。


「俺が生涯掛けて愛し、守っていきたいと思うひとはただひとり」

「え?」


脈絡のない言葉に首を傾げると、尚さんは柔らかく微笑み、そのままゆっくりと抱き寄せられた。

尚さんの胸元に顔を埋める形で話の続きを待つ。 


「絶対に手放したくない」


さらに強く抱き締められた。


「愛おしいと心から思うのは杏だけなんだ」


絞り出すような声に胸が打たれた。

両手を尚さんの背中に回すと、体がピタリと密着した。


「ありがとう」


尚さんはそう言うと、体を離し、私の顔を見下ろした。


「好きなひとが想いに応えてくれる。こんな幸せなことはないよ。たしかに両親は古河さんに感謝しているし、古河さんが嫁に来てくれたら、って思っていたが、『俺が生涯掛けて愛し、守っていきたいと思うひとはただひとりだ』って言ったら案外簡単に分かってくれた」


ニコッと爽やかな笑顔を見せてくれた尚さんは立ち上がり、デスクの中からファイルを持って戻ってきた。


「これが証拠だ」


手渡され、中身を確認すると、そこには婚姻届が入っており、よく見ると、承認の欄に尚さんのお父さんの名前が記入されていた。

それと一通の手紙も。


「読んでいいですか?」


尚さんに確認すると頷いてくれたので、封を開け、中身を取り出す。

拝啓
松島杏様

達筆な文字はお義母さんのもののようだ。
最後に書かれた名前を見てから、また冒頭に目を向ける。

< 33 / 37 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop