結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです

読み終えて尚さんを見上げると、尚さんは柔らかく微笑んでいた。


「尚さん」

「ん?」

「嬉しいです」


感情が溢れて、声が震えてしまった。

気付いた尚さんが優しく抱き締めてくれた。


「今度の休みに一緒に実家に行こう。杏の好きな食べ物の話も伝えてあるから、たくさん作って待っていてくれるよ」

「え?へへ。好きな食べ物って。そんなことも話したんですか?」


嬉しいのと可笑しいのとで思わず笑ってしまった。


「やっと笑ったな」

「え?」


尚さんの体から離れて顔を上げると、頬が両手で包み込まれた。


「杏には笑顔でいてもらいたい。笑顔でいてくれるようにしたいんだ」

「私もです」


尚さんにされているのと同じように両手で尚さんの頬を包み込む。


「尚さんには笑顔でいて欲しい。時には仏頂面も怒り顔もアリだけど、基本的には笑顔で、ずっとそばにいて欲しいです」

「杏がそばにいてくれれば、俺はいつでも笑顔でいられるよ。だから病院も辞めて」

「それは無理なお願いです」


即答すると、尚さんは「ハハ」と声を出して笑った。


「杏は頑固だな。でも、意思を言葉にしてくれて嬉しいよ」

「これからはきちんと気持ちを伝えますね。あと、なにがあったかも。報告するようにしますね」


結婚のことも、古河さんや伊東先生のこと、仕事のこと。

互いが不安に感じていたのは、互いに胸の内に秘めてしまっていたからだった。

私たちに必要なのは言葉にすることなのだ。


「じゃあ、伊東とのやり取りを報告してもらおうかな。なんて告白されたんだ?」

「それはさすがに。尚さんだって古河さんからの告白、話せませんよね?」


聞き返すと尚さんは肩を竦めた。

そしてまた立ち上がると、ペンを手にして戻ってきた。


「サインしてくれるか?」

「はい」


それはもちろんだ。

ダイニングテーブルに移動し、婚姻届にサインをしていく。

今日は不安もないし、婚姻届に向き合うのは2度目なので手の震えもなく、しっかりと記入出来た。

両家の顔合わせの日取りもその場で決めて、実家に連絡出来たし、承認の欄にはその日、父に書いてもらう旨も伝えられて、両親も喜んでいた。


「ようやく動き出しましたね」

「そうだな」


婚姻届を挟んで向かい合って座る中、尚さんがポケットから何かを取り出した。


「遅くなったけど」

「誕生日プレゼントですか?」


私の誕生日は4月だから、まだお付き合いしていなかった。


「なんでだよ」


尚さんはツッコミながら笑い、立ち上がり、私の隣の席に腰を下ろした。

それから小さな小箱を開けた。


「これ」


眩いばかりに光り輝くダイヤモンド。

誕生日プレゼントだなんてあり得ない。


「スワロフスキーとかのガラス製の方が良かったか?」

「いえ。すごく。すっごく嬉しいです。はめてみていいですか?」


聞くと尚さんはホッとしたように微笑み、指輪を取り出し、私の左手の薬指に付けてくれた。


「わぁ。綺麗。サイズもピッタリです。ありがとうございます」

「ヤバイな」

「え?」


尚さんは口元に拳を当て、顔を背けている。


「どうかしましたか?」

「いや。それだけ嬉しそうに喜んでもらえると何でも買ってやりたくなる」

「いやいや。特別感がなくなりますし、無駄遣いはやめましょう」


そう答えると、尚さんはまた「なんでだよ」と言って破顔した。


「でも、財布の紐が固そうで何よりだよ。お金の管理は任せたよ、奥さん」

「お…っ?!」


奥さん、なんて言われると、嬉しくて、でも、恥ずかしくて落ち着かない。


「杏は本当に可愛いな」


そう言うと尚さんは私の後頭部に手を回し、グッと自身の方へと引き寄せ、キスをした。


「お腹、空いてるか?」


唇が離れてから聞かれた。


「はい」


と答えると、尚さんはまた笑った。

でも、空腹なんて二の次。


「もっとキスして欲しいです」


正直に言葉にすれば尚さんは満足そうに微笑み、唇から体の隅々までキスをしてくれた。






















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