最愛なる妻へ~皇帝陛下は新妻への愛欲を抑えきれない~
 
ナタリアの爪が食い込んだイヴァンの腕から、細く血が流れていった。

ナタリアは泣きわめき、暴れて、美しい人形のようだった顔を涙でグシャグシャに汚す。まるで聞き分けのない幼子のように。

やがて騒ぎを聞きつけた侍従らが部屋の前に集まり、激しいノックと共に「陛下! いかがされましたか!?」とドアの向こうから問いかけてきた。

「なんでもない! 散れ!」

ドアに向かってイヴァンが一喝すると、その隙を狙ってナタリアが彼の体を力いっぱい押し退けた。

ふいに喉を押されたせいで力の緩んだイヴァンの体の下から、ナタリアがスルリと逃げ出す。

しかしベッドを降りたところですぐに後ろからイヴァンに捕まってしまい、ナタリアは再び泣きわめいた。

「ローベルト……、ローベルト……!」

ナタリアの体を後ろから抱き込んだまま、イヴァンはそのまま床に力なく座り込む。

「……ナタリア」

その顔は威厳にあふれる大帝国の皇帝ではなく、ひとりの男として果てしない悲しみと苦悩に満ちていた。

ローベルトの名を繰り返し呼びながら泣き続ける妻を抱きしめ、肩口に顔を押しつけながらイヴァンは掠れた声で呟く。

「愛している……ナタリア……」

狂おしいほど切ないその言葉は、最愛の妻には届かない。
 
なぜなら彼女の心は今、九年前のあの日をさまよっているのだから。


――ここはスニーク大帝国、雪の国。
一年のほとんどを白で覆いつくされたこの国の風景を、まるで時の止まった世界のようだと人はいう。
 
 
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