前髪
他人に髪を触れられるのが、こんなに緊張するものだとは思わなかった。

放課後、人気のない校舎。

隣接する音楽室や美術室、科学室などが集められた技術棟から吹奏楽部の練習する音が、グラウンドからは野球部の声出しが聴こえる。

夏も終わり、最近日が落ちるのがはやくなった。
かすかにオレンジ色に染まった太陽が室内に差し込み、わたし達を照らす。

目の前にいるのは、同じクラスの芦川馨(あしかわ かおる)くん。

ここは、椅子と机が全て後ろに纏められたがらんどうの空き教室。
私はその中から運び出した一脚の椅子に腰掛け、彼はすぐ目前で鞄の中を探っている。

ぴくりとも変わらない端正な横顔。

一頻りガサゴソと鞄を漁った後でてきたのは、家庭用の散髪鋏と二本のダッカール。

そして、いつかの小テストで配られた解答用紙。

その用紙を無言で手渡され、同じく無言で受け取る。
どうしたものかと見上げると、

「切る時髪が散らないように顎の下に当てて」

かなり手慣れてる。

はい、と小さく返事をして両手で髪の端と端を掴み顎の下に添えた。

芦川くんは満足したように頷いて、座っている私に合わせ少し屈むように視線を合わせる。

覗き込んでくるのは黒目がちな大きな瞳。

整った顔立ちであるとは思っていたけれど、近くで見るとますます実感する。

薄い唇に、ニキビひとつないつるりとした肌。
羨ましくなるくらい左右整った二重幅。
決して派手な顔じゃない、けれど、品がある。

おまけに身長は170センチ近くと程々に高い。

思わずその綺麗な顔立ちを観察していると、骨張った白い手が躊躇なく私の前髪を掬い上げた。

「じゃあ、切るけど。眉ギリ下くらいでいい?」
「…それでお願いします」

突然触れられたことに思わず肩が上がる。
けれど、彼は特段気にしていない様子で私の前髪を前髪とそうじゃない部分で丁寧に分けて止めていく。

「ダッカールとか持ってるんだね」
「男子の髪はよく切るから、献上された」

その言い回しにくすりと笑う。少し緊張が解けた。

「目あけないでね。髪入るといけないから」
「わかった」

短く息を吐いて目を閉じる。

夕日が透けて瞼の血潮が見える。

例えようのない歪んだ光が目の中でチカチカと点滅し、私は自分の呼吸やわずかに開いた窓から吹き込む風の音、鋏の刃の擦れる音に意識を集中させた。

ほとんど話したこともないクラスメイトとふたりきり。
何の縁か前髪を切ってもらっている。

不思議な時間だった。
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