月がきれいですね



「取り敢えず、お疲れ様」
結婚式と披露宴。
更には、二次会まで終えて、蒼子と斉木はその日泊まる予定のホテルの部屋へ戻った。
「蒼子ちゃんこそ、お疲れ様。衣装も重そうだったし。本当に疲れたでしょう?」
言いながら、斉木が洗面所へ向かう。
「うん、ほんとに疲れた。もう、お化粧も落としちゃいたいくらい」
斉木に続いて、手を洗いながら蒼子は鏡を覗き込む。
いつもより、念いりにほどこされたメイク。
嬉しくもあるけれど、もう落としたいと蒼子が言えば。
「落としちゃってもいいけど。これから、レストラン行くよ?」
それでもいいなら、と斉木が答える。
「はは。きれいなワンピース着て、レストラン行くのに、ノーメイクって無いよね。気合入れて、もうちょっと我慢します」
敬礼する仕草で、蒼子がふざけて笑えば、斉木も笑った。
「でも、ちょっと休憩しよう。蒼子ちゃん、お茶とコーヒー、どっちがいい?」
ポット前で言う斉木に、蒼子も並んでカップを出す。
「私は、日本茶がいいなあ。貢くんは?」
茶筒を手にしながら、蒼子が聞けば。
「俺も日本茶」
斉木が短く答える。
そして、ふたり並んでゆったりとソファに座る。
手にしたカップから漂う湯気。
それを見つめ、お茶を飲みながら、蒼子は大きく息を吐いた。
「なんか、ほっとする」
温かさがじんわりと広がるような気持ちで蒼子は言い、そのまま窓の外を見る。
「うん。いいね、こういう時間」
同じように窓の外を見て、斉木も言う。
外は、やや夕景を残しながら、宵へと進む時刻。
昼の喧騒とはまた違う風景が、街に訪れようとしている。
「夫婦になって、初めてふたりで見る夕焼けだね」
ぽつりと言った斉木に、蒼子も頷く。
「これから、たくさんの景色を貢くんと見るんだね」
思えば、改めて夫婦になったのだと実感がわいた。
「たくさん、一緒に色んなものを見ようね、蒼子ちゃん。俺と」
ほんわりと、斉木が笑う。
こうしていると、まるで普通の夫婦になったようだと蒼子は思う。
けれど、自分たちは、普通の夫婦とは違う、契約の夫婦だ。
それを忘れないようにしないといけない。
改めて思わないといけないくらい、蒼子は斉木と過ごす時間が幸せだと感じるようになっている。
願わくば。
今、隣で笑う斉木もそうであってくれるといい。
蒼子は、心の底からそう願わずにいられなかった。



「貢くん。これ、お弁当」
自宅となるマンションに、ふたりで戻った日の夜は何事も無く過ぎて。
その翌朝。
蒼子は、結婚して初めてそのマンションでの朝を迎えた。
前の晩に、出社のために家を出る時間を斉木に聞いておいて、その前に起きて、蒼子は斉木に持たせる弁当を用意した。
「蒼子ちゃん。もしかして、これ、お弁当?」
それを渡した斉木は、朝食のテーブルで固まって。
「ありがとう。凄く嬉しい」
その喜びが溢れ出る、満面の笑みを浮かべた。
「よかった。お弁当のこと、聞いてなかったから。いらない、って言われたらどうしようかと思った」
契約結婚。
それがため、斉木と蒼子の寝室は別になる。
それを別に何とも思っていなかった蒼子だけれど。
『あ。明日、お弁当、って作ってもいいのかな?』
ベッドに入る時になって、そのことに気が付いて心配にもなったのだけれど。
『まあ。要らない、って言われたら私が食べればいいかな』
そう結論づけて、結局、今朝は弁当を作れる時間にアラームをかけた。
最悪、朝とても機嫌が悪くて。
今までの斉木からは考えられないくらい素っ気なく。
『要らない』
そう言われることも覚悟した蒼子は、今、目の前で心底嬉しそうに弁当を見つめる斉木を見て、作って良かったと嬉しい気持ちが広がっている。
「朝食が、ちゃんと用意してあるのも凄いと思ったのに。お弁当まで。ほんとにありがとう、蒼子ちゃん」
蒼子が朝食に用意したのは、食パンにインスタントのコーヒー、目玉焼き、それに簡単なサラダ。
それだけなのに、斉木は本当に嬉しそうに笑う。
「朝食、パンで良かった?ご飯がよければ、明日からそうするし。卵も。スクランブルがいいとか、あれば言って」
それは、直前になるまで聞いていなかったこと。
それを反省しつつ、蒼子が言えば。
「朝ごはんは、パンでもご飯でも。あ、でも。できれば、あったかいものがあると嬉しい。コーヒーだけでも、カップスープでもいいから」
遠慮しがちに。
それでも、斉木がはっきりとそう言うから。
「あ、じゃあ、あったかいお味噌汁とかあるといいのかな?」
それなら、和食かな、と蒼子が自分もコーヒーを飲みながら聞けば。
「希望していいなら。週に半分くらいは、ご飯がいいかな。後は、パンでも大丈夫」
嬉しそうにコーヒーを飲みながら、斉木が言う。
「判った。食べられないものとかは?」
サラダのきゅうりをつつきながら、こんな質問は、本当に今更だなと蒼子は思うけれど。
「特に、好き嫌いは無いから何でも大丈夫。そういえば、蒼子ちゃん、好き嫌いは?」
斉木も卵を食べながら、蒼子の方を見る。
「私も特にないかな。凄く変わったものとかじゃなければ、大丈夫。あ、そうだ。夕飯は何がいい?何かリクエストあれば」
今夜の献立のことについて、蒼子が問えば。
「何でもいい。というか、蒼子ちゃんに任せる。何か、もう朝から凄く嬉しくて。今からお弁当と夕飯が楽しみだよ」
箸を止めることなく動かしながら、斉木が言う。
「うお、プレッシャー」
冗談めかして言いつつ、蒼子はその温かさが堪らなく嬉しい。
自分の作ったものを、嬉しそうに食べてくれる斉木。
自分の作った弁当を、嬉しそうに受け取る斉木。
それが、これからの日常だと思えば、蒼子のなかに嬉しさが広がって行く。
「プレッシャーになんて、思わなくていいよ。蒼子ちゃんが食べたいものを作って、ここで待っててくれて。それで、今みたいに、一緒に食べられれば、俺はそれが一番いい」
一緒に食事を摂ること。
それが一番だと斉木が笑う。
「うん。ご飯は一緒に食べた方が美味しいよね」
心から大賛成だと、蒼子もコーヒーカップを持ったまま頷いて。
「俺、早く帰れるようにするから。待っててね」
コーヒーの湯気の向こうで、屈託なく笑う斉木を嬉しい気持ちで見つめていた。



「同居して、っていうか。結婚して初めての夕飯、ってなに作ったらいいんだろう?」
引っ越しをして、初めて本格的に買い物に来たのは、これからお世話になるだろう、近所となったスーパー。
そこは、マンションから徒歩一分。
それは、何と言う便利のよさか。
改めて斉木の両親と自分の両親に感謝せずにはいられない。
蒼子は、車の免許を持っていない。
だから、買い物は近さが勝負だと思っている。
米を買うにしても、大きな雑貨を買うにしても、ひとりで運ばなくてはならないのだから。
とは言え、昨日の夜。
結婚式を終え、一泊したホテルから戻って、蒼子は斉木にリクエストして、このスーパーに一度来た。
そして、米と今朝の食材はゲットしたのだけれど。
「お米も、この後からは自力で運ばないとだけど、それはまあ、今日でなくてもいいから。買うべきは、今夜の夕飯の食材だよね」
米を軽々と運んでくれた斉木を頼もしく思い出しながら呟き、蒼子はカートを押しながら、ゆっくりと足を進める。
斉木が、蒼子の専業主婦を認めてくれたお陰で、惰性で務めていた会社も退職もできた。
この先は、蒼子が願っていた通りに、大好きな家事だけに専念できる。
その場所をくれた、斉木のためにも頑張りたいとは思うけれど。
「何か、ネットとか本とか見ながら作る料理でいいのかな?それとも、本を見て、本格的な料理がいいのかな」
蒼子と斉木。
ふたりの新居で迎える、最初の夕餉なのだ。
何か特別なものがいいかとも、蒼子は思うけれど。
「でも、特別なものをたくさん食べた後だしなあ」
結婚式の披露宴、でこそ、出された料理を食べる事のできなかった蒼子と斉木だけれど。
その後。
ふたりで泊まったホテルでは、それこそ特別なイタリアンを頂いた。
その、パスタも肉料理も魚料理も、それは見事としか言いようがなくて。
蒼子は、とても勉強になるとも思ったのだけれど。
「あれを再現、は無理だし。第一、最高級を食べたばかりだし」
となれば、真似して作ったとしても、荒が目立つだろうと蒼子は迷いに迷う。
「でもなあ。まさか初日から手抜きってわけにはいかないだろうし。ってか、そんなの私が嫌だし」
カートを押しつつ、肉売り場、魚売り場と巡り歩いて。
「うーん。ハンバーグ、って。単純かな」
ちょうど、安売りとなっていた牛肉のひき肉を手に取って眺めた。
「和牛100パーセントでこの値段は、魅力的。それに、ランクも二段階あるし」
見れば、和牛100パーセントのひき肉には、二種類あって。
その上のランクだと、少し贅沢かもしれない、でも、と蒼子は迷う。
斉木から、一ヶ月この給料でやりくりしてくれ、と渡された給料明細は、斉木の年にしては上出来と思える金額で、蒼子は本当に嬉しくなった。
そして、同時に、それを預かる身として、気持ちを引き締めもした。
この金額を稼ぐために、斉木は日々努力しているのだ。
嫌な事があっても、辛い事があっても日々邁進している。
それを。
その、汗と涙の結晶を、のほほんと無駄に使ってはならない。
自分で、十年近く働いて、自活してきた蒼子には、斉木が持って来てくれる給料。
それがとても尊いものに思えて、自戒するように節約を誓っている。
「でも。節約はしても、おいしいものは食べて欲しいよね」
それに、今日は自宅で迎える新婚初日だ。
多少の贅沢は許されるだろうと。
蒼子は、思い気ってランクが上の和牛100パーセントのひき肉をカートに入れた。
ひき肉の他にも、ブロッコリーやにんじん、サラダ用の葉物野菜を買って、蒼子はワイン売り場の前まで来た。
「赤ワイン。飲みたいかも」
ハンバーグに、赤ワイン。
それは、蒼子にはとても魅力的に思える。
それに、斉木もよく呑む方で蒼子をバーに連れて行ってくれたこともある。
それなら、大丈夫だろうと蒼子は値頃な赤ワインを籠に入れ、ウィスキーのボトルも籠に入れる。
「お酒も何が好きなのか、もっとちゃんと聞かないと」
赤ワインとウィスキーを斉木が呑むことは知っている。
けれど、そういえばそれ以外を知らないと。
蒼子はまた、斉木に聞くことメモが増えた気持ちでレジへと向かい。
「うん。いい買い物できた」
満足の思いでスーパーを後にした。
これだけの食材があれば、充分にテーブルを美味しそうに彩れるだろう。
そのことが、とても嬉しい。
「あとは、失敗せず作るようにしないと、ね」
初日から、真っ黒焦げのハンバーグは出さないようにしないと、と。
蒼子は、気を引き締めてマンションへの道のりを楽しい気持ちで歩いた。



「ただいま、蒼子ちゃん」
「おかえりなさい、貢くん。一日、お疲れ様です」
<これから、会社を出ます>
退社する斉木からメールを貰って、逆算した帰宅時間。
その時刻に違うことなく帰宅した斉木を玄関で迎えた蒼子は、その顔を見て今日も一日無事に済んだことを嬉しく思う。
「なんか、いいな、こういうの」
靴を脱ぎ、あがりながら斉木が笑う。
「え?こういうの、って?」
先にリビングへと歩いていた蒼子が、振り返って聞けば。
「うん。疲れて帰って来て。玄関で。
『おかえりなさい、お疲れ様』
って言って貰えるの、凄くいいな、って思って」
言いつつ、鞄を自室へ置きに行き。
「それに、何か凄くいい匂いがする」
くんくんと鼻を鳴らした。
「ほんと?今夜、ハンバーグにしたんだけど、よかったかな?」
蒼子が問えば、ネクタイを外しながら斉木が嬉しそうに笑う。
「ハンバーグ大好き。もしかして、蒼子ちゃんの手づくり?」
子供のように喜ぶ斉木に、蒼子もとても嬉しい気持ちになる。
「そう、私作のハンバーグ。結構うまく出来たから、楽しみにしてて。それより、ね、貢くん。先にお風呂に入る?それとも、ご飯にする?」
どちらがいいかと、首を傾げて尋ねれば、ワイシャツの襟もとのボタンも外した斉木が、一瞬、考えるように瞳を動かして。
「うーん。ハンバーグに凄く心惹かれるけど。やっぱりお風呂、先にもらっちゃってもいいかな?さっぱりしたい」
そうねだるように言った。
「もちろんいいよ。すぐ落とすから、着替えとか用意してくれる?それか、私が用意しようか?」
着替え。
それは、契約結婚である蒼子と斉木にとっては、デリケートな問題で。
蒼子は、どうしようかと思っていたのだけれど。
「自分でも出来るけど。蒼子ちゃんが用意してくれるなら、頼んじゃおうかな」
少し甘えるような調子で、斉木はそう言った。
「わかった。私が、用意するね。あ、じゃあさ。洗濯も全部私がする、でいいのかな?」
自分の衣服に触られるのは、嫌かもしれない。
蒼子は、不安に思って今日は手を付けなかった家事について、思っていたことをそのまま口にする。
「うん。お願いできると嬉しい。っていうか、頼り切りで、俺が全然駄目な感じかな?」
それは、いくらなんでも頼りすぎかと、斉木は困ったように尋ねるけれど。
「ううん。任せてくれるなら、そういうの、私が全部やりたい。貢くんが、嫌じゃなければだけど」
蒼子は蒼子で、遠慮がちにそう言った。
そして。
「なんか、俺たちおかしいね」
周りから見たら、おかしな会話をしていると斉木が笑う。
「そうだね。でも、私たちには大切なことだよ。これから、一緒に暮らしていくんだから」
蒼子も笑いつつ、そう答えて。
「貢くん、着替えって、何をどこに入れた?」
斉木に続いて、斉木の部屋に入ろうとして。
「とと。おじゃまします」
いけない、と一旦立ち止まり、そう声をかけて。
「蒼子ちゃん。この部屋も、蒼子ちゃんの家の一部なんだから、そんなのいいんだよ。俺が居ないときに入っても、全然かまわないからね?」
斉木に、優しく頭をぽんぽんと撫でられた。
斉木に頭を撫でられる。
そうすると、何だか凄くほんわりと幸せになる。
そう感じて、蒼子は心からの笑顔を斉木に向けて、風呂上がりの斉木のための着替えの準備をした。
すると、斉木が慌てた様子で蒼子を見る。
「あ!蒼子ちゃん!」
「な、なに!?どうかした!?」
その叫びに振り返り、何事かと蒼子が尋ねれば。
「でも、俺は勝手に蒼子ちゃんの部屋に入ったりしないから、安心してね!」
蒼子の肩を、がしっと掴んで斉木が宣言した。
「え?別に入ってもいいけど?」
何がそれほど問題なのかと、蒼子は首を傾げる。
けれど。
「駄目でしょ!蒼子ちゃんは、女の人なんだから、男の俺が部屋に勝手に入るのは駄目なんだよ」
聞きわけの無い子供に言うように、斉木が蒼子の肩を掴んだまま言う。
「み、貢くん」
かっくんかっくんと肩を揺らされて、蒼子の頭も髪も身体も揺れる。
「ああ、安心して。俺が気を付けるから。用事があるときは、ちゃんとノックして、蒼子ちゃんの了解の返事があってから、ドアを開けるからね」
必死に言う斉木に、蒼子は可笑しささえ込み上げて、思わず微笑んでしまうけれど。
「まったくもう。蒼子ちゃん、危機感無さ過ぎ。俺がドアを開けたときに、着替えとか、してたら困るでしょ?」
びしっ、と斉木に言われ、初めて真っ青になる思いで、それは困ると頷いた。
「そ、それは困るね」
改めて、斉木が必死になっている理由が判った気がして、蒼子は斉木に感謝する。
「困るでしょ?ちゃんと気をつけようね」
うんうんと頷いて、斉木が蒼子の髪を撫でる。
「でも、まあ。俺が着替えてるときは、蒼子ちゃんは、さほど気にしなくていいよ」
蒼子には、さんざん気をつけるように言っておきながら、斉木は、自分のこととなると気にしなくていいと、からっと言う。
だがしかし。
斉木が着替えているところに出くわす。
そんな状況を想像した蒼子は。
「私も、気をつけるね」
それまでの自分の考えを心の底から反省し。
真面目な顔で、そう言ったのだった。



「お風呂、お先にありがとうございました」
濡れた髪をタオルで拭きながら、斉木がそう言ってリビングに戻って来る。
「あ、じゃあ、ご飯にする?」
座っていたソファから立ち上がり、蒼子がキッチンへ向かおうとすれば。
「いいお湯だったよ。蒼子ちゃんも入っておいでよ。それから、ゆっくりしよう?」
提案するように、斉木が言った。
「え?でも、ご飯遅くなっちゃうよ?」
それが心配だと、蒼子が首を傾げれば。
「待ってる間に、髪を乾かすし。それに、凄くいい香りのお湯だったから、蒼子ちゃんも凄くくつろげると思うよ」
にこにこと笑いながら、斉木が蒼子の背を押した。
「ほら、早く行っておいで」
斉木の身体から、ほんのり立ち昇るお湯の匂い。
それは、確かに清潔でさわやかで、気持ちの落ち着くもの。
「なら。私も、お湯、貰って来ちゃおうかな」
蒼子は、元々、お風呂に入ってから食事をしたいタイプで。
だから、斉木の申し出はこの上なく嬉しい。
「うん。そうしなよ」
「ありがと」
言って、部屋に着替えを取りに戻ろうと歩き出せば。
「あ、ねえ蒼子ちゃん」
その蒼子を呼び止めるように、斉木が声をかける。
「ん?なあに?」
何かあるのかと、蒼子は振り返って。
「明日からさ、俺が帰る前に蒼子ちゃんが先にお風呂、入っちゃっててもいいからね?」
斉木の提案を、驚きと共に聞いた。
「え?私が先に?」
蒼子の育った家では、母の方が父より先に風呂に入ることは無かった。
古風、と言われる感覚かもしれないが、斉木より先に自分が風呂に入るという感覚がよく判らない。
「うん。蒼子ちゃんの都合に合わせて、入っちゃっていいよ。そうしたら、俺が帰って風呂入って、すぐご飯にできるでしょ?俺、ご飯より先にお風呂入りたいからさ」
名案だと、斉木が笑う。
確かにそうすれば、色々時間の短縮にもなるし、蒼子の夜の自由時間も増える。
だが。
「でも、ほんとにいいの?」
自分が一番風呂、というのに慣れていない蒼子は、悪いと思う気持ちが止められない。
「もちろん。俺が言い出したんだから、いいに決まってるよ」
じゃあ、それがこの家のルールだね。
そう言って斉木が笑う。
「私たちのルール」
鸚鵡返しに言って。
蒼子は不意に、目の前に立つ斉木の瞳に自分が映っているのを見た。
「蒼子ちゃん?」
優しい色を湛えた、その瞳。
蒼子より、ずっと高いところにある筈のそれが、少し低い位置にあって。
蒼子は、斉木が蒼子の背に合わせて、少し膝を折ってくれていることに気が付いた。
「ありがと、貢くん」
他人から見れば、奇妙な関係になった蒼子と斉木。
それでも、蒼子は今とても温かな幸せを感じている。



「なんか。幸せ、って。色々なんだな」
ひとり湯船にゆっくりと浸かって。
蒼子は、自然と笑顔になっていく自分を愛しく感じていた。



「あ、メール。雪さんからだ」
斉木と蒼子が結婚して一ヶ月ほど経ったある日。
蒼子は一通のメールを受け取った。
それは、懐かしい中学時代の同級生からのもの。
同じ部活だった雪さんこと、谷雪絵はおとなしい性格のおしとやかな女性で、蒼子も好感を持っていた。
その彼女が、同じ部活だった仲間数名と飲み会をしないか、と言ってきている。
「結婚の報告もしたいし、行ってもいいかな。貢くんに相談してみよっと」
蒼子は、斉木に外出してもいいかの確認を取ることにして、返事は一旦保留にした。



「え?中学時代の友人と飲み会?もちろん、いいよ。行っておいで」
その日。
夕飯の席で、おずおずと相談をした蒼子は、あっさりと了解して笑ってくれる斉木に心からほっとした。
「夕飯は、あっためて食べられるように、用意しておくし、余り遅くならないようにするから」
ちゃんと家事は済ませて行く、と蒼子が言えば。
「そんなこと、気にしなくていいから、楽しんでくるといいよ」
斉木は、一日くらい自分で何とかする、と胸を叩いてみせてくれた。
「お小遣い、こういうことに使っていいのかな?」
斉木と結婚したとき、家計のすべてを蒼子に預けてくれた斉木。
その斉木は、自分が小遣いとして貰えるお金があるのなら、蒼子にもあってしかるべきだと主張してくれた。
そのとき、大してその重要性を感じていなかった蒼子だけれど、こうして、自分ひとりで出掛けるというときになれば、それが大切なことだったのだと判る。
「いいに決まってるよ。蒼子ちゃんのお小遣い、なんだから」
当たり前だと言い切って、斉木がかぼちゃの煮物を口に運ぶ。
「今日も、美味しい」
そう言ってくれる言葉が、蒼子には嬉しい。
また頑張って作ろうという気持ちになる。
「明日は、何が食べたい?」
そんな何気ない普通の会話を、穏やかにかわしながら、斉木と蒼子の夜は更けていく。



「じゃあ、名残惜しいけど、そろそろ帰るね」
久しぶりに会った、谷雪絵を始めとする同級生との飲み会は楽しく。
宴席が好きな蒼子は、結構な量を飲んでしまった。
それでも、終電にはまだ間があるし、この時間なら、斉木も心配はしないだろうと駅のホームでメッセージを入れた。
<これから、電車に乗って帰ります。一時間くらいかかるかな?>
そうして、入線して来る電車を待っている間に。
<了解です。気を付けて帰って来てね>
そんな、優しいメッセージを受け取った。
そして、今の蒼子には、そのメッセージを打ったときの斉木の表情までが見えるようで。
きっと、小犬のように丸まりながら、ソファに座ってでも打ったのだろう。
「ふふ。貢くん、可愛い」
思えば、そんな言葉が口を突いて出た。
「ああ。貢くんだなあ」
蒼子は、何だかとても楽しい気持ちになって風に吹かれる。
斉木という男は、逞しい、という感じではないがとても優しくて思いやりがある。
顔面偏差値は物凄く高いのに、それを驕るような素振りは一切ない。
むしろ、自分の顔の良さを判っているのか?と蒼子などは問いたくなってしまうほど。
「無頓着、だよねえ」
衣服にも、もっとお金をかけるかと思いきや、そのようなこともなく物欲も薄いようにみえる。
でも、そんな斉木だからこそ、彼が持つささやかな希望は大事にしたいと、蒼子は思う。
「でもまあ。この先、変わって行くかもしれないけど。でも、そんなに大きくは変わらないだろうな。でも万が一、物凄くギャンブラーになったりしたらどうしよう」
賭けごとに嵌ってしまう斉木。
賭けごとはしない、と結婚前に言っていた斉木だけれど、この先、何かをきっかけに好きになってしまって、小遣いが足りない、と言い出すことだって有るかもしれない。
「借金、とかは困るけど。少しくらい、楽しみにするくらいなら、いいかな」
自分の想像でしかないことだと忘れそうになりながら、ふわふわとした思考で考える。
酒が入って、気持ちが大きくなっているからか、賭けごとをする斉木さえ、それはそれで、楽しみでもあるかと蒼子は明るく構えて、入線して来た電車に乗った。
「あ。まずい、かも」
そうして、電車に乗って、直ぐ。
蒼子は、かなりの眠気に襲われた。
これから、一時間も乗っていなくてはならないのに、この眠気に勝てそうにない。
けれど、一時間あるからといって、今ここで眠ってしまっては、下車する駅で無事に起きられる自信も無い。
「そうだ。何か、面白い動画でも見てよう」
そう思い付き、蒼子はスマホを操作し出す。
「何がいいかなあ。楽しい動画、笑える動画・・・」
呟きつつ、幾つかの動画を巡って。
蒼子は、いつのまにか、ぐっすりと眠りこんでしまっていた。



「え?なになに、どういうこと?」
電車で目覚めた蒼子は、自分が今おかれている状況がよく把握できなかった。
いや、電車に乗っている。
それは判る。
だがしかし、この電車は『次は終点』と車内アナウンスが流れている。しかも、『この電車は最終です。お忘れ物の無いように・・・』などと言っているのだ。
蒼子が乗ったのは、終電より前だった。
それなのに、今乗っている電車は終電。
そのうえ、更に最悪なことに。
その、終点、は、蒼子が乗った駅。
つまり、蒼子の家があるのとは反対側に位置する場所。
「往復、しちゃった、ってこと!?」
パニックになりながらも、何とか電車を下り、蒼子は急いで駅のタクシー乗り場へ走った。
「混んでる」
当たり前と言えば、当たり前。
そこは、蒼子と同じように終電を逃したと思しき人たちで溢れていた。
でも、ともかくこの列に並んでいればタクシーを拾える。
そう安堵して、蒼子は大きく溜息を吐いた。
「やっちゃった」
失敗した、と財布の中身を思う。
この駅から、蒼子の自宅マンションの最寄り駅まで電車で約一時間。
つまり、その分のタクシー代金が必要な訳で。
「ああ。貢くんから貰ったお小遣い。こんな無駄な使い方するなんて」
もう、溜息しか出て来ない。
飲み会終わりは、あんなにも楽しかったのにと思えば、蒼子は更に自分が情けなくなった。
「あ、貢くんに電話しなきゃ」
一時間ほどで帰る、と電話してから早数時間。
きっと、斉木は心配しているだろう。
最悪、電話口で怒られることも覚悟して、電話しようとした蒼子は更に真っ青になった。
「充電、切れてる」
動画を再生したままにしていたからか。
蒼子のスマホは、真っ暗なまま、何の反応も無い。
「電話、電話」
思って、辺りを見渡しても、それらしきものは見当たらない。
このまま並んでタクシーで帰るか、電話を見つけて連絡するか。
しかし、電話を探していたら、更に時間が遅くなる。
それに、深夜の街を余りひとりで歩きたくない。
「ごめん、貢くん」
蒼子は小さく謝って、このまま列に並んでタクシーを待つことにした。
それから、じりじりと時は流れて。
漸く自分の番が来てタクシーに乗り込んだとき、蒼子は既に疲れ切っていた。
頭は冴え渡っているのに、気持ちがどきどきと落ち着かない。
その気持ちを反映するかのように、上がって行く料金メーター。
それに反比例するように、蒼子の気持ちが下がって行く。
夜。
人の行き来も少なくなって、静かになった街を、タクシーが奔って行く。
そうすると、どうしようもなく寂しい気持ちになって、蒼子はまるで自分ひとりが夜の闇のなかに放り出されてしまったかのような気持ちになった。
元はと言えば、自分の不注意から起きたことだ。
それでも、蒼子は温かい自分の。
自分と斉木の家に、早く帰りたいと思った。



「蒼子ちゃん!今何時だと思ってるの!!」
漸く辿り着いた自宅マンション。
そのドアを、力無く開けた蒼子は、物凄い勢いで走って来る斉木を見た、と思う間も無く力いっぱい怒鳴られた。
「ご、ごめんなさ」
「帰る、って連絡くれてから、どれだけ時間が経ってると思ってる!?いったい、どこで何してたの!?」
こんなに激昂する斉木を、蒼子は初めて見た。
それほどのことを、自分はしたのだと言う気持ちが込み上げて涙が出そうになる。

でも、泣いちゃ駄目だ。

それは違う、と。
きゅ、と唇をかみしめた蒼子は、次の瞬間。
「心配しんたんだよ!どうして、もっと遅くなるって、連絡してくれなかったの!?ほんとに、もう!!」
物凄く強い力で引き寄せられ、抱き締められていた。
「ご、ごめんね、貢くん。私、終電で、寝ちゃって。それで、乗り過ごしちゃって・・で、充電、切れちゃってて。それで」
連絡出来なかった、と最後まで言えずに涙声になる。
「本当に。無事で良かった」
蒼子をぎゅうぎゅう抱き締めて、斉木が安堵の声を出す。
それで、斉木がどれほど蒼子のことを心配していたのか知れて、蒼子は益々申し訳ない気持ちになる。
「本当にごめんなさい」
蒼子を抱き締める、斉木の強い腕。
それがとても頼もしくて、蒼子は心からの安堵を覚える。
「二度と、こんなことしちゃ駄目だからね?」
言いつつも、斉木は蒼子を離さない。
「うん。気をつける」
そっと耳を押し当てれば、聞こえる斉木の鼓動。
それに引き寄せられるように、蒼子は斉木の背にそっと両手を回した。
「蒼子ちゃんって、小さいんだね」
そんな蒼子の身体を抱き締めて、斉木が囁くように言う。
「貢くんは、大きいね。凄く、頼りになる」
斉木は心が広い。
それは、蒼子がずっと感じていたことだけれど。
身体も、これほど大きく頼りになるとは実感できていなかった。
その思いで、蒼子は斉木を抱き締め続ける。
斉木も蒼子を離さずに、そのぬくもりを確かめるかのように、蒼子の頬に自分の頬をそっと当てた。
「蒼子ちゃん」
呼ぶ声が、優しい。
それはまるで甘い蜜のようだと思いながら、蒼子は斉木にすべてを委ねるように、そっと目を閉じた。

ゆるやかに。
斉木と蒼子の時が、流れていく。


< 3 / 3 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop