太陽に抱かれて

 辺りは薄く紺色に染まり始めていた。夏場はいつまでも日が暮れないパリだが、秋も深まってきた今では、さすがに日没も早まっている。とはいえ、やっと日本の夏至の日没に追いついたかというところだろう。

 ももは地下鉄の駅へ向かおうとして、ふたたび美術館方面へと戻った。
 なんとなく、アパルトマンに帰る気にはなれなかったのだ。“物足りない”ラーメンを一日の締めくくりにするのは、気が引けたからかもしれない。いっそのことサン・ラザール駅に向かうという手も頭を過ぎったが、実現させるほどの勇気はももにはなかった。
 オルセー美術館を右手に眺めながら、セーヌ川沿いをしばらく歩くことにした。

「さむい……」

 夜の匂いを孕んだ冷たい空気が、耳の裏をすうっと撫でる。もうすでに、厚手のコートを羽織ってもよい気温だった。

 それでも、パリの街はその彩りを欠くことはないらしい。街灯は明るく石畳を照らし、すぐそばを走り抜けるエンジン音の合間、軽やかに跳ねるコントラバスの音色やエッジの効いたシンガーの声が響いてくる。賑やかだった。

 キャルーゼル橋を越え、ポンデザールの明かりを認めると、ももは足を緩めた。

 煌々とオレンジ色の光を放つその芸術の橋には、行き交う人々や寄り添う恋人たちの影が見える。その手前からはカトラリーやガラスの鳴る音、それから、人々の談笑する声が耳を撫でていく。

 吹き抜ける風は、青い匂いがした。セーヌの流れに逆らい、栗色の髪を攫っては、紺色の空に散りばめていく。細い指がそれを掻き集め、耳へとかける。

 パリの夜景は、幻想的だった。
 それは、あの時と一切変わらない。ももがまだ、あらゆる期待に胸を弾ませていた、あの日と。

 それなのに――。

「ママン!」

 声がした。鈴の音のように澄んだ声が。
 ももは咄嗟にそちらを振り返っていた。

 小さな男の子が女性へと駆け寄り、広げられた腕の中へと飛び込んでいく。隣には、二人へやさしいまなざしを向けている男性が。強く抱きしめられた男の子は、笑っていた。女のひとも、そして、男のひとも。
 幸せそうに、笑っていた。

 頬に、なにかが伝った。

「……っ」

 あれほどにも日が照っていたというのに。ぽつり、ぽつり、その勢いを増しては、そのあとを冷やしていく。
 いつしか、ポンデザールの灯火は滲んでいた。石畳に落ちた影も、水面に揺らぐ赤や青の美しい光も、なにもかも。目に映るすべてが、亡霊のようにその輪郭を失っていた。


「……もう、かえろう」

 もものか細い声が、やがてパリの喧騒に溶けていった。
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