さよなら、片想い
 せっかく岸さんが素敵な夜をくれたのに、私はそのあと宏臣に会い、最悪な思いを味わった。岸さんと過ごしたまま気分よく寝てしまえばよかったのに、だ。

「わざわざすみません」

 それだけ言って、私は描きの作業を再開する。
 割と近いところに岸さんの気配があるのを無視する。

 見られているのはわかっていた。描いているところを黙って見ていく、友禅部みんなが嫌がっている、岸さんのいつものあれだ。
 区切りのいいところまで塗って、視線を上げた。私の塗り方に注文があるならやればいい、とばかりに。
 ところが岸さんが見ていたのは反物ではなく、私だった。
 まともに目が合い、単純に驚いた。


 岸さんがすっと身を引いた。
 それで、思った以上に近くにいたんだと知った。

「続けていいよ」

 岸さんは机の端に付箋を残していった。
 私はというと、長い紐の絵柄を塗りはじめたので終わるまでは余所見ができない。
 塗り残しなく、柄の際まで白が入ったのを確かめてから付箋を見た。
『今日一緒に帰れる?』と書いてあった。
 ただそれだけなのに耳が熱くなった。
 今日、の部分は後づけされたように少し上にあって、ここへ来て思いたって走り書きしたんだろうと想像できた。
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