センチメンタル・ファンファーレ
「そんなことよりさ、」
ちょっと涙目の私をよそに、川奈さんはカラリとトーンを変えた。
「神宮寺リゾート杯って、賞金はもちろん出るんだけど、副賞でね、ペア宿泊券がもらえるんだ。毎年場所は違うんだけど、今年はここ」
コートのポケットからプリントアウトした紙を取り出して、熱心に語る。
「離れでね、庭もすごくきれいで、何よりその庭を眺められる天然露天風呂が部屋についてるんだって!」
「……へえ、すごいね」
粗い印刷ながら、畳敷きのテラスからの眺めは見事だった。
写真は新緑に彩られているけれど、場所は北海道なので、今なら雪を眺めながら温泉に入れるかもしれない。
「一緒に行こう」
「…………………はあ?」
「もし自腹で宿泊するとしたら、閑散期でも一人一泊三万はするらしいよ。それでもなかなか予約取れないんだって。えっと、ナトリウム・カルシウム-塩化物泉? よくわかんないけど肩こりに効くかな?」
「ええっ! あの……」
「来月の第二土曜日。交通費は出ないんだけど、賞金も入るし行こうよ」
言いながら、携帯で飛行機の予約状況を確認し始める。
「あの……そこって二部屋なの?」
「一部屋だよ」
「同じ部屋に泊まるの?」
「ペア宿泊券だもん」
「……………何もしない?」
川奈さんはこれみよがしなため息をついた。
「弥哉ちゃん、いい大人が何言ってんの? 日常と深瀬さんから遠く離れて、いろいろとやりたいことあるでしょ」
「『いろいろ』って怖い! その空欄埋めるの怖い!」
「じゃあはっきり言う?」
「いやーーーーーっ!!」
まだ返事はしていないのに、川奈さんはすっかりその気になっていた。
「楽しみだな~。あ、でも一緒のお風呂とか、ちょっと恥ずかしい……」
なぜか胸を腕で隠して、頬を染める。
「入らないよ」
「入らないの!?」
「ダメダメ! 一緒のお風呂なんて無理!」
怒りにも近い形相で紙を突き付け、川奈さんは写真のお風呂の部分をバンバンと叩いた。
「何のための露天風呂付き離れなんだよ!」
「だって恥ずかしいもん」
「恥ずかしいのがいいんじゃない! それ楽しむための旅行でしょ! 要相談! 『一緒に入る』って言うまで何回でも相談!!」
「それ相談って言わないよ! そもそも付き合ってる自覚もまだないのに」
「付き合ってるでしょ? だから『行く』って言って」
「急展開過ぎる……」
「うん。俺もここ三日間、いいことずくめ過ぎて、夢だったら嫌だな」
気づけば、川奈さんは目の前10cmにまで迫っていた。
電気をつけていない部屋はほんのり暗く、西日が視界をぼやかす。
伸びてきた川奈さんの手が私の頭から頬へと滑り降り、確認するように輪郭をなぞった。
「まだ、明るいよ?」
わずかな明かりは川奈さんによって遮られて、私はすっかりその影の中にいた。
「目閉じれば暗いって」
唇にそんな吐息が落ちる。
抱き締められても、しがみついても、キスをするとすべてがあいまいになる。
カレーの味だけが現実を思わせたけど、それも唇を離すと夢だったような気がした。
「弥哉、『行く』って言って」
少し距離を開けた川奈さんのシャツを、強く引っ張った。
「もう一回してくれたら、言う」
夢じゃない、と確かめるうちに、カレーは鍋底に焦げ付いていた。