センチメンタル・ファンファーレ

「あ、こんばんはー」

長身の女性がマンションのエントランスに入って行き、川奈さんは元気よく挨拶をした。

「こんばんは」

私も小声で挨拶したけれど、ジロリと睨まれただけで返事はなかった。
たちの悪い酔っぱらいだと思われたのかもしれない。

「私たち、通報されちゃうかな?」

「大丈夫、大丈夫。それに弥哉ちゃんはどうせもうすぐ引っ越すでしょ?」

突き放されたような気がして、視線が手元に落ちた。

「うん。ちょうど今年度末で更新だから、そのタイミングで引っ越すつもり」

「千波さん結婚するんだよね」

「そうなの。だからひとりで住むには広いし家賃も高いでしょ? ……あれ? 川奈さんって、ひとり暮らしだよね?」

十二畳のLDKに六畳の和室が隣接していて、他に六畳の洋間がある。
基本的にファミリー向けで、ご夫婦で住んでいるか小さい子がいる世帯がほとんどだ。
勝手にひとり暮らしだと思っていたけど、間取りを考えると誰かと同居していてもおかしくない。

「ひとりだけど、和室があった方が便利なんだ。研究会するとき使えるから。洋間は寝室」

「あ、なるほど」

青リンゴサワーがするっと喉を通っていく。

「私は生まれてから二十四年、ひとりで暮らしたことないから、ちょっと不安」

「あれ? 弥哉ちゃんって、二十三じゃなかった? いつ誕生日来たの?」

「昨日」

先日の居酒屋のときのように、川奈さんは頭を抱えた。

「言ってよ! 俺、何も用意してない!」

「別にいいよ」

「今からどっか行こう。何でもご馳走するから」

勢いよく川奈さんは立ち上がった。

「やだよ。すっぴんだし。もうお腹いっぱいだもん」

断られた川奈さんはにがりきった表情でふたたび座る。

「とりあえず乾杯やり直そう。弥哉ちゃん、誕生日おめでとう」

「ありがとう」

乾杯はさっきよりだいぶ軽い音がした。
川奈さんは空っぽの缶を手の中でペコペコとリズミカルに潰している。

「……今日の勝ちを弥哉ちゃんにあげる」

やがて贈られた言葉に、私は怪訝な表情を返した。

「は?」

「今日の勝利を弥哉ちゃんに捧げます。今はそれしかあげられるものない」

「別にいらないんだけど」

「そう言われると、なんかショック……」

もらったところで、毒にも薬にも、ゴミにさえならないものだ。
だけど気分は悪くない。

「せっかくだから、いただいておこうかな」

「どうぞ、どうぞ。つまらないものですが」

「ほんとにね」

通り抜けた車のライトで、缶の縁が一瞬光った。
いつの間にか空には細い月も浮かんでいる。
夏を運ぶ南風が、ふわりとツツジの葉に触れていった。




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