センチメンタル・ファンファーレ

「明日は仕事?」

対局以外に棋士は棋戦の解説やイベント、指導、執筆など、将棋にまつわるたくさんの仕事がある。
中には将棋を扱った作品の監修をする人もいるらしい。
その上、研究会やひとりで勉強する時間も必要なので、スケジュールはとても不規則だ。

「明日は休み。あ、歯医者だ」

「虫歯?」

「いや、歯が欠けちゃって。対局で歯を食いしばったりするから、棋士で歯が悪い人も結構いるよ」

「大丈夫なの?」

「明日はナイトガード作るために型取るだけだから」

「お兄ちゃんは姿勢悪くて腰痛持ちだし、肩こりひどいし。将棋指してるだけなのに、身体ガタガタだよね」

指についたバタークリームを、川奈さんはペロッと舐めた。
ビニール袋から紙おしぼりを出して渡す。

「そうだね。みんなよく早死にしないで棋士やってると思うよ」

デニムを穿いていても、お尻がほんのり湿ったように感じる。
こんな時間にこんなところでお尻を湿らせながら、初めてお兄ちゃんの人生について考えた。

「お兄ちゃんがどんな風に生活してたかなんて知らなかったな」

性別が違うだけでなく、将棋に没頭していたお兄ちゃんのことは、知らない部分も多い。
友人関係も、恋人がいるのかいないのかも、よくわからない。

「知り合いが同じマンションに住んでるなら、教えてくれればよかったのに」

「接触持たれたくなかったんじゃないかな。深瀬さんって、結構シスコンだよね」

「特別仲良くなんてないよ」

「でも賞金もらったら奢ってくれたんでしょ?」

「あれだって、たまたま知った私が強引に約束取りつけたの。あ、しかも結局奢ってもらってない!」

今度こそ何かねだらないと、と欲しいものや食べたいものを思い浮かべる。

「俺が弥哉ちゃんとこうしてるって知ったら、深瀬さん怒るだろうな」

「言わなきゃバレないでしょ」

「いや、この辺結構棋士が住んでるから。小多田(おただ)さんは神社の向こうに一軒家建てたし、駅裏のマンションにも三沢(みさわ)さんが住んでるし、鶴温泉に行けば高確率で白取(しらとり)くんに会うし。誰かに見られて情報伝わりそう」

川奈さんは左右に頭を振って、通りを見渡した。
しかし、時折車が通るだけで、人通りはない。

「伝わったって気にしないよ、お兄ちゃんは」

「そうかなあ? 食べる?」

目の前にアメリカンドッグを差し出されたけれど、さすがに首を横に振った。
川奈さんはケチャップもつけず、スポンと口に放り込む。
あまりにダイレクトな食べ物だ。
もし私が口をつけても、気にせず食べる人なのだろう。

「昔怒られたんだよね、深瀬さんに。『妹に話し掛けるな』って」

「へ? いつ?」

宙を見上げて歯形のついたアメリカンドッグをくりんくりんと回す。

「んーーーーっと、俺が小学校三年生のとき、かな」

川奈さんが小学校三年生なら、お兄ちゃんは小学校四年生、私は二年生。

「覚えてない」

「あ、やっぱり? 高清水将棋スクールの夏の大会でさ、廊下に座ってる女の子に『一緒にやろうよ』って声かけたら『将棋きらい』って断られたの。人生初のナンパで玉砕した苦い思い出」

「それ、私?」

「そうだと思う。そのあと上級生の深瀬望くんに『妹に話し掛けるな』って怒られたから」

将棋漬けのお兄ちゃんの影響で、私も駒の動かし方とルールくらいは知っている。
将棋教室や将棋大会も、付き合わされて行ったこともあるけれど、川奈さんの記憶はない。
なにしろ、男の子なんて山ほどいたわけだから。

「お兄ちゃんとやると毎回ボロ負けするから、面白くなくてやらなくなったの、将棋」

「あ、それ普及には良くないパターンだね。ダメだな、深瀬さん」

ケラケラと楽しそうに笑って、グレープフルーツサワーを飲み干した。

「あのとき弥哉ちゃんにフラれてから、俺のフラれ人生が始まったんだ」

「私のせいみたいに言わないでよ」

「弥哉ちゃんのせいだよ。責任取ってー」

この人の言葉は、なんて重みがないのだろう。
同じ会社のひとつ上の先輩は、それなりに経験の差を感じさせられるのに、学生気分をそのまま引きずったような人だ。
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