きみこえ
Cry for the Moon


「もうすぐ満月か・・・・・・」

 時雨は窓から見える僅かに欠けた状態の月を見て呟いた。
 月を見ていると遥か昔の事を思い出す。
 今と変わらない月の様に優しい笑顔の君、その月に、いくら手を伸ばしても永遠に手は届かない・・・・・・。
 その思い出は、とても美しくて、儚くて、切なくて・・・・・・。
 大昔の町、触れ合う裾、思いを(つづ)った歌、君を照らす大きな月・・・・・・、断片的ないくつもの記憶がフラッシュバックし、思い出そうとする度にツキリと頭が痛む。
 時雨は頭を押さえながらも、ふと机の上の端末を見やり、ずっと観察していた信号が動き出した事に気が付いた。

「おや?」

 その信号がこちらに向かって来ると分かり、時雨は部屋を出て玄関に向かった。
 そして、案の定呼び鈴が鳴ると時雨は嬉々として扉を開いた。

「こんばんは、ほのかちゃん。こんな時間にどうしたのかな?」

 そう訊ねると、ほのかは扉を開けるまでの時間が異様に早い事を疑問に思う事なく、スケッチブックに文字を書き出した。

【時雨兄、お月見がしたい】

「お月見? 確かにもうすぐ中秋の名月だからね・・・・・・」

 時雨は少し悩んだが、ほのかのキラキラとした眼差しから逃れる事は出来なかった。

「うん、そうだね・・・・・・。やろうか、お月見」

 そう笑顔で答えるとほのかはパァッと明るく笑い、嬉しそうに飛び跳ねた。
 その様子に時雨はクスリと笑いながら「じゃあ金曜の夜にね」と言った。




 金曜の夜、ほのかは時雨の家で軽く月見そばを食べた後、二人で外に出た。
 真っ先に向かった先はマンションの駐車場だった。
 そこには余所(よそ)の車と比べて格別目立つ時雨の赤いスポーツカーがあった。

「さあ、どうぞお姫様」

 時雨がニッコリと笑って助手席のドアを開くとほのかはポカンとした顔でスケッチブックを見せた。

【時雨兄、どこに行くの?】

「うん? それは着いてからのお楽しみ、かな?」

 ほのかは頭にクエスチョンマークを浮かべながらも時雨の促すまま車に乗り込んだ。
 時雨の車の中は、車の布の匂いに時雨の香りが混ざっているように感じられた。
 ほのかは流れていく景色よりも、横で運転する時雨の横顔を見詰め続けた。
 その視線に時雨は気が付き、赤信号で停車した時ほのかに声を掛けた。

「どうしたんだい? 運転する姿に見惚(みと)れちゃった?」

 そんな軽口を叩きながらも、内心では心臓が早鐘を打って落ち着かず、下手をすれば手元が狂いそうだった。
 ほのかは時雨を見詰めていた事に言われて初めて気が付き、スケッチブックにペンを走らせた。

【時雨兄の運転初めて見るから】

 ほのかは暗い所でも文字が読み易いように、ペンの後ろにライトが付いている物を用意していた。
 車の中でもその力は遺憾(いかん)無く発揮(はっき)され、スケッチブックをライトで照らし、時雨に文字を伝える事が出来た。

「ああ、そう言えばそうだったね」

【本当に大人の人なんだなって思った】

「大人・・・・・・・・・・・・か」

 そう時雨は呟き、再び車を走らせた。
 時雨の横顔は先程とは打って変わって、どこか寂しそうな顔をしていた。
 なぜそんな顔をするのか、ほのかには理由が分からずにいた。




「さ、着いたよ」

 時雨に案内されて辿り着いたのは大きな公園の湖の前だった。
 ほのかは目の前の光景に息を飲んだ。
 街灯が少なく、辺りは暗かったが、その代わり一際大きな月が美しく夜空に映え、湖面にも同じ月が映し出されていた。
 その景色はどこか懐かしくも感じられたが、いつ、どこで見たかは思い出せなかった。
 ほのか達は湖の前のベンチに腰掛けた。

【すごい、すごくキレイ!】

 ほのかは夜の星空にも負けないくらい目を輝かせた。

「うん、そうだね、とても綺麗だ・・・・・・」

 そう言う時雨はどこか元気が無さそうだった。

「あ、そうだ、お月見らしく月見団子持ってきたんだ。食べる?」

【食べる!】

 時雨は風呂敷包を開き重箱に入れられた団子をほのかに差し出した。
 ほのかは喜んで団子を頬張った。
 団子の餡はなかなか凝っていて、普通の餡子の他に、栗餡や芋餡、胡麻餡等が入っていてどれを食べても飽きが来なかった。

【超絶美味!】

「ふふ、超絶かぁ、嬉しいなぁ」

【色んな味があって美味しい! 時雨兄が作ったの?】

「うん、喜んでもらえて良かった。作ったかいがあったね」

 ほのかは時雨の器用さと料理の上手さに感動していた。

「ほら、せっかくのお月見なんだから月も見ないと」

 そう時雨に言われ、花より団子ならぬ月より団子になっていたほのかは再び月を眺めた。
 その月は確かに丸かったが、どこか違和感があった。

【丸いけど丸くない・・・・・・?】

「ん? ああ、良く気が付いたね。本当の満月は明日だからね」

【!】

 時雨の言葉にほのかは驚きを隠せなかった。
 今まで中秋の名月、お月見、十五夜と言えば満月が見られるものだと思っていた。

「中秋の名月は旧暦の八月十五日の事で、その日の空は空気が澄んでいて、月がいつもより美しいと言われているね。ただ、月の周期的な問題で約一日満月の日とズレてしまうんだ。満月の中秋の名月の日も勿論あるけれど」

【時雨兄詳しい】

「まあ、一応先生だからね。保健室のだけど」

【じゃあ明日もお月見すれば月見団子が食べられる】

 そう書いてみせると時雨は口元を押さえて笑いだした。

「あははは、ほのかちゃんはほんと、昔から変わらないなぁ・・・・・・」

 ひとしきり笑った後、時雨はまた少し寂しげな表情に戻り月を見た。

「・・・・・・ねえ、昔、こうやってお月見をした事・・・・・・、覚えてる?」

 時雨と目が合った時、そう聞かれてほのかは戸惑った。
 確かに懐かしいような感覚はさっきからずっと感じていたが、それが一体いつの事なのか、子供の頃の事だったのか、よく思い出せずほのかはフルフルと頭を振った。

「そう・・・・・・だよね、いや、なんでもないよ。今のは忘れて」

 そう言う時雨は今にも泣きそうな笑みを浮かべていた。
 そんな時雨の顔を見る度に、ほのかの胸の奥はキュッと締め付けられ、息をするのも苦しく感じた。




 (しばら)く二人で沈黙したまま月を眺めていると、時雨は腕に何かが当たっているのを感じ横を見た。
 ほのかは眠ってしまい、時雨にもたれかかっている状態だった。
 その様子を見て時雨は小さく笑った。

「寝ちゃったか」

 時雨は一人、再び月を見た。
 時折、風が吹き、二人の髪を揺らし、湖面の月に波が立った。

 --私が月なら、貴方はこの湖みたいな人ね。

 時雨はそう言われた事を思い出し、今も変わらないものだなと考えていた。
 水面(みなも)に映るほど月を見続け、恋焦がれ、ちょっとした一言でも風の吹いた水面の如く、月の形が崩れる様に心も揺れてしまう。

「もしも、僕が君と同じ位の歳ならば、もっと近くで君を見守る事が出来るのに・・・・・・」

 時雨はそっとほのかの顔にかかる髪を払う様に頬を撫でた。

「もしも、あの時君を守る事が出来たなら・・・・・・、もしも、君が過去の事を覚えていてくれたなら・・・・・・」

 時雨は空に浮かぶ月に手を伸ばした。
 月は手を伸ばせば(さわ)れるのではないかと思うほど大きく見えるのに、実際は虚空を掴むだけ。
 こんなに近いのに、こんなにも遠い存在に、時雨は気が付かない内に目に一粒の涙を浮かべていた。

「ああ・・・・・・、僕はいつも無いものねだりをしてばかりだね」

 いくつもの期待と、いくつもの後悔の念と、いくつもの絶望が螺旋の様に折り重なって、それは時雨を縛り付けていた。

「しぐ・・・・・・れ、・・・・・・ここに、いる・・・・・・」

 突然の声に時雨はハッとした。
 それは久方ぶりに聞くほのかの声だった。

「ひ・・・・・・、め・・・・・・?」

 時雨はほのかの顔を覗き見た。
 ほのかに意識は無く、寝言なのだとすぐに分かった。
 だが、それでも時雨は期待する事をやめる事は出来ず、切なさの残る笑みを浮かべた。

「どうか、今だけは・・・・・・」

 そして、まるで()れる事を許されない存在をそっと包むかの様に優しくほのかを抱き締めた。
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