きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~
第一章 後宮で見る夢は。

君にひかりを。

 切り立った岩場とわずかな平地に穏やかな太陽の日差しが注ぎ込む。
 雪に閉ざされた冬が終わり、枯れ枝に若葉が芽吹く季節。人々が待ち望んだ季節が訪れる。
 そう山々に生命が戻ってくるのだ。

 山岳地帯にあるこの小さなウダの郷に、遅い春がきた。

 アセナは慣れた足取りで、岩場を登っていた。
 まだ風は刺すように冷たくところどころに雪が残るが、ものともしない。
 生まれてから9年、毎日のように通った道である。小さな手足を器用に動かし、カモシカのようにすいすいと上がっていく。

 「もうちょっと」

 鼓舞するように呟くと、さらに速度を上げて上を目指した。もう少しだ。もう少しで着く。
 この岩場の先にあるアセナの大切な場所に。

 「ああっ」

 突然ビリリと音を立て、袖が裂けた。急ぐあまり尖った岩に引っ掛けたようだ。

 「やっちゃった」

 帰ったら母親に大目玉だろう。貧しい家に新しい服を仕立てる余裕はない。ツギをあてれば着れない事もないだろうが、酷く怒られる事は間違いない。
 が、アセナは気にしなかった。これから行く場所に心がわきたち、他のことは考えられない。

(今朝、東から温かい風が吹いた。もう咲いているかもしれない)

 今日は一年に一度だけの特別な日。
 アセナだけの知っている“園”に小さな奇跡がおこるのだ。

 春の始め暖かい東風が吹いた最初の日に、とある花が咲く。
 山岳地帯でよく見られる決して珍しい花ではない。だが、アセナの園だけは雪が残るこの季節に咲くのである。

 白い花弁の不思議な花だった。

 岩にへばりつくように葉を伸ばし、太陽に向って小さな花弁を真っ直ぐに向ける様は、力強く可憐だった。
 アセナはその名も知らぬ花が好きだった。

 この貧しい郷で地をはいずり生きているアセナは、幼いながらも貧困のどん底から這い上がれない絶望を感じていた。

 上だけを向き咲く白い花は、そんなアセナにとって一筋の希望に見えたのだ。
 一年に一度だけ、苦しい生活を忘れさせてくれるささやかな幸せだ。

 「いそがなきゃ」

 崖を登りきって、アセナは小走りに園を目指した。雪やぬかるみが残り、走りづらいが構わなかった。

 (あともう少し……この先……)

 アセナは足を止め、目を見開く。


 人が居る。

 郷の者ではない。

 見知らぬ人だ。

 
 立派な体躯をした青年であった。園に接した岩場に座り込み帳面に何かしらを熱心に書き込んでいた。
 青年の整えられた濃茶の髪は絹の組紐で結い上げられ、派手ではないが一目で上質と分かる袷を着ている。
 上等な革製の長靴と腰に佩かれた豪華な装飾の施された太刀から、かなり地位の高い武人であると、何の知識のないアセナですら見当がついた。

 (秘密の場所なのに!! 私だけの大切な場所なのに!!)

 アセナは怒りを感じながら、青年に近づいた。

 「そこで何をしてるの? あなた誰?」

 青年は顔を上げた。

 「珍しい花を見かけたから、絵に残しているんだ。ここは禁忌の地かい?」
 「違う、そういうのではないけど……」
 ここは特別な場所だったの、と尻すぼみになりながらも応えた。

 何ももたないアセナの唯一の大切な場所だった。それなのに見ず知らずの異郷人に知られてしまった。大切なものが穢された思いがする。

 (私だけのものだったのに……一年楽しみにしてたのに……)

 アセナは悲しみと空虚さに涙があふれそうになった。言葉が出ず、唇をかみ締める。
 青年は困ったように微笑み、

 「君はウダの(さと)の民だね」
 と春の光を受け明るい若草色をしたアセナの瞳を見つめた。

 「ちょうどいい。この花の名前をおしえてもらえないかな?」

 アセナは下を向いて押し黙ったままだ。青年は穏やかに続けた。

 「俺はダイヴァという。旅をしているんだ。怪しいものではないよ。たまたまここの峠越えをしていて、この花園を見つけたんだ。とても綺麗で珍しい花だと思って書き留めてるんだよ」
 「……花の名前は知らない。山の岩場ならどこにでも生えてるありふれた花よ」

 でもここだけはこの季節に咲くの、と小声で言った。青年はアセナの言葉を帳面に書き取った。

 「あなた字が書けるの?」

 アセナは字を書けもせず読めもしない。
 アセナだけではなく、ウダの郷の大部分が文盲であった。山と畑で生きる彼らに、学びをつける余裕も機会もなく必要もなかった。これはウダだけが特異なわけではなく、この国では当たり前のことだ。

 アセナは物珍しそうに青年の帳面を覗き込んだ。

 厚手の紙に白い花が写し取られていた。まるでそこに花が咲いているかのようだ。花の特徴でも書いてあるのだろうか。花の横に線が引かれ、流れるような美しい文字が並んでいる。

 「とても上手ね。帳面に本物の花が咲いているみたい。文字?もすごい」
 「ありがとう」

 ダイヴァは熱心に見入るアセナに、

 「文字が珍しいのなら、何か書いてあげようか?」
 「ほんとに? じゃあアセナって書いてみて?」
 「アセナ、君の名前?」
 「そう。私の名前。自分の名前くらい読めるようになりたいの。出来れば書けるようにも……」
 「わかった」

 帳面をめくり、真っ白な面を出すと、ダイヴァはさらさらと書き始めた。

 「アセナ。いい? これがア、そしてセ、ナ」

 二度繰り返す。
 そしてアセナに筆を持たせ、上から自らの手を添えた。

 「書いてみよう。ア、セ、ナ」

 声にあわせゆっくりと筆を動かす。何度か繰り返すうちに文字らしきものが紙面に現れた。
 生まれて初めて書いた文字は、ダイヴァからすれば文字とはいえないものであったが、アセナは飛び上がりたくなるくらい嬉しかった。

 (私の名前。私の字)

 ダイヴァは再び帳面をめくると新たにアセナと書き、破り取ってアセナに渡した。

 「君の大事な場所に勝手に入ってしまった詫びだよ。練習したら書けるようになるから、がんばるんだよ」
 「……ありがとう」

 しばらく紙切れを眺め、丁寧に折りたたむとアセナは胸元にしまいこんだ。ダイヴァは立ち上がると、岩場の際までゆっくりと歩いていく。

 眼下には雪を残した壮大な山岳が広がり、わずかな平地に民家がへばりつくように建っている。

 「ここは美しい場所だ」
 「そうなの? 私はウダしか知らないの。この山しか知らないから、美しいかどうかは分からない。(さと)では辛いことしかないし。異郷人のあなたからそう見えるのなら、きっとウダの郷は美しいのね」

 この過酷な環境で人は生きていくだけでも精一杯だ。微々たる耕作地は痩せ、飢えと死は常に隣り合わせだ。囲む景色が美しくとも、それだけでは生きてはいけない。
 
 ダイヴァはアセナの頭を撫でた。

 「……いつかアセナにもウダの素晴らしさを知ることができる時がくるよ。子どものうちは分からないだろうけど」
 「そうかなぁ?」
 「きっとね、来るさ」

 ダイヴァはアセナの瞳をもう一度見入ると、人を待たせているから、とウダの郷の民でも驚くほど軽快に岩場を下っていった。
 アセナはその身軽さに唖然としながらダイヴァを見送った。姿が見えなくなると、胸元に収めた紙を服の上から押さえる。

 (不思議な貴人さんだった。でも字を教えてくれた)

 一年に一度の楽しみは失われてしまったが、今年は自分の名を、文字を知ることができた。白い花に変わり、ちょっとした幸せに胸がいっぱいだ。

 (またいつか会えたらいいな。お礼をいわなきゃ)

 アセナはそっと山の神に願った。
 いつか字が書けるようなりますように、そして貴人さんに会えますように、と。

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