きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~

第1話:後宮の満月の下で。

 今夜の月は満月。
 月明かりは、灯りが必要ないほど明るくこの宮を照らす。
 黄金色の瓦が月光を反射し、中庭に音もなく降り注いでいる。

 ここはパシャ帝国の帝都イシン。

 広大な王宮の最奥に緑に囲まれた一角がある。
 皇帝の為の後宮(ハレム)である。

 中心に庭を囲む形に居室が作られた白亜の宮が5棟、整然とならんでいた。

 その一つ、第三位皇妃のための宮の中庭に広げた絨毯の上で、丁寧に結い上げた豊かな黒髪の若い娘が月明かりとわずかな灯りで本を読んでいる。

 アセナ・ウダ=バヤル。

 かつては山岳を野生の鹿のように駆け回っていた娘である。
 あれから10年が経ちアセナは19歳になっていた。

 『ウダの碧玉』と呼ばれる青い瞳を持つ辺境の民ウダ族の娘は、畑仕事で痛んでいた黒髪も今では誰もが褒める艶やかな髪に、襤褸をまとい痩せて貧相であったその体も、充分肉がつき女らしい体になっていた。
 飢えと貧困に喘いでいた子供時代の面影はない。

 そもそもなぜ辺境の民族ウダの娘が後宮にいるのか?

 それは4年前のことだ。

 アセナが15歳になったとき、ウダの郷のあるクルテガ皇領こうりょうは大飢饉に襲われた。
 ウダの郷も例にもれず、畑は枯れはて何人が冬が越せるかというところまで追い込まれた。
 当然アセナの家も今日食べる物を確保するのさえ難しい状況に陥ったのだ。

 からっぽの米びつに、飢える兄弟達。
 アセナはひもじさに泣く兄弟を見て決意した。

 家族が生き残るための選択肢は唯一つ。


 アセナは村をめぐる女衒(ぜげん)に自らを売った。


 ウダの民のその見目の珍しさは希少価値が高い。
 女衒は後宮を取り仕切る宦官頭(かんがんがしら)と交渉し、遊郭に卸す倍の金額でアセナを売った。
 そして即位したばかりの23歳の皇帝の皇妃候補宮女として献上したのである。

 後宮入りししばらくたってから、アセナは自分を売った金で家族は誰も死ぬことなく、飢饉を乗り越えられたと聞き、ほっと胸をなでおろしたものだ。

 (家族が生きのびれてよかった。ここは毎日ご飯が食べられて、飢えることはないし……勉強もできる。最高の環境だわ)

 アセナはゆっくりと本のページをめくった。一文字、一文字、丁寧に指で追いながら文字を読む。

 「ユリの花の、ほ……リボルこれは何と読むの?」

 隣に座る簡素な袷あわせを着た40がらみの男に訊いた。青白い顔を向け、ちらりとアセナの手元にある本を見ると、

 「芳香、でございますね。『ユリの花の芳香』」
 と、男にしては高く女にしては低い奇妙な声で言う。

 「ラティフの恋愛詩(ガゼル)はとても素晴らしいものです。アセナ妃様、諳んじられると宮女としての格が上がりますよ」
 「詩を暗誦するくらいで?」
 「ええ、詩は教養の証となりますから。教養が身につけば皇帝陛下のご寵愛をいただける日がくるやもしれません。アセナ妃様には頑張っていただかないと。このリボル、出世ができないじゃないですか。私の夢をお忘れではないですよね?」
 「後宮ここの宦官頭になることでしょ?」
 「よくお覚えで。その通りでございます。すぐにお忘れになるので、心配しておりました」

 リボルはアセナ付きの宦官(かんがん)である。
 宦官とは皇帝とその家族に仕えるために去勢した男性のことだ。
 後宮には事故を防ぐために健全な男性は立ち入ることは出来ない。だが女官では担えない仕事は多々あり、どうしても男手が必要だ。それを補うために生まれたのが宦官である。
 子孫を繋ぐという術を永遠に失ってしまうが、家柄や生まれに縛られずに一身出世ができると、この国パシャにおいては貧民のあこがれの職であった。

 (宦官とか、ほんと理解できないけど……)

 後宮に住み、その世話をうけながらも、アセナは宦官という存在を受け入れられずにいた。ふるさとの辺境の貧村ではそのような風習はなかったのだ。

 子を残し、命を繋ぐ。
 命があっけなく召されるウダの郷ではもっとも尊ばれる事だった。

(それなのに自ら陰部を切り落とし“男”としての機能を絶つなんて。信じられない)

 リボルの人格は評価するが、宦官はちょっとね? というアセナである。

 「ていうか、リボル。欲望だだもれだよね。少しは隠したら? 仮にも私、あなたよりも身分が上の宮女なんだけど?」
 「何をおっしゃるのかと思えば。アセナ様も一度も皇帝陛下のお渡りのない最下級のお妃様ではありませんか。後宮入りして4年、もはや宮女というよりも第三位皇妃さまの侍女と化していらっしゃるのでは?」

 後宮は完全なる階級社会である。
 皇后を頂点に、皇妃、妃と序列がつけられている。アセナは皇帝と同衾をしたことのない“渡りのない宮女”無位(むい)の妃だった。
 無位の妃はより高位の妃の侍女として勤めるのが慣わしだ。アセナは第三位皇妃の宮に他の無位の妃たちと、一つの部屋で雑魚寝をしながら仕えている。

 「私はいいのよ。別に陛下のご慈悲を頂こうとか考えてもいないし。カルロッテ皇妃様が御無事に御懐妊なさることのほうが大事よ」
 「あぁ左様ですねぇ」

 リボルはちらりと後方を見た。
 かすかに光の漏れる大きな扉がある。

 この宮殿の主人、第三位皇妃カルロッテの寝室だ。

 今宵はこの後宮の唯一の主でありこの国の支配者、皇帝アスラン・パッシャールがカルロッテのもとへ渡ってきていた。
 カルロッテは皇帝の渡りのある四人の妃のうち、一番若く美しいと名高い北国出身の姫である。
 このところ間をおかず皇帝は渡ってきており、御寵愛もあつく御懐妊も間近では? と噂されていた。

 (まぁ私には関係のないことだけど。とりあえず連日のお側係の寝ずの番は勘弁して欲しいかなぁ。寝不足つらい……)

 カルロッテは同い年のアセナを一番のお気に入りとしていた。
 常にそばに置き、閨の世話もアセナ以外にさせようとはしなかった。故に、渡りのある日は皇帝が妃の部屋を出る深夜まで待機しておかないとならないのだ。

 「さぁアセナ様。詩にもどりましょう。今夜のうちに3編は覚えてくださいね。今月中には一冊終わらせましょう」
 「ねぇそれ無理すぎない?」
 「やらないと無理なままです。やれば出来るものですよ。お頑張りください」

 主人であるアセナを出世させないとリボルの夢も叶わない。
 4年前、ようよう自分の名が書ける程度で読み書きも出来ず教養のない状態で後宮入りした娘。上官から担当を命じられた時は、絶望したものだ。
 不躾無教養の娘を諸国の姫や貴族の娘と張り合わせねばならないのは、途方もない努力がいることだった。
 4年をかけ皇妃には及ばないものの、そこそこのレベルまで底上げさせた。やっとここまできたのだ。今諦めるわけにはいかない。

 「『バラの(かんばせ) 糸杉の如くの麗しさ』……」

 アセナは朗々と語る。

 「『ユリの花の芳香を纏いし汝の……』」
 「『清らかさ』……ラティフだな。初期の快作だ」

 アセナとリボルは振り返った。
 さっと顔色を変え、地面にひれ伏す。

 夜着をだらりと着崩し左手には豪奢な装飾のされた刀を持つ長身の男が、満月を背に立っていた。

 若き皇帝アスラン・パッシャール、その人である。
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