きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~

第3話:波乱の前兆

 アセナの一日はカルロッテのご機嫌伺いから始まる。
 自身の身支度と軽い朝食を終えると、第三位皇妃の宮の主寝室へ伺うのが日課だ。

 今朝もいつも通りにカルロッテの寝室に向っていた。
 昨晩は結局床につけたのが深夜になり、アセナはものの見事に寝不足である。小さくあくびをし、開ききらない目をこすった。

(昨日もお渡りがあったから、お休みになられてるかも)

 カルロッテはここ最近は皇帝の寵愛も熱く渡りがあった翌朝は昼近くまで休んでいることも多い。アセナが顔を出しても面会できないときも少なくなかった。
 まだ起きていないようなら仮眠をしようとつらつら考えながら、アセナは主寝室前の回廊を掃き清める宦官に声をかけた。

「カルロッテ様はまだお休みかしら?」

 箒を持つ手を止め宦官がアセナにふかぶかと礼をする。

「おはようございます。アセナ妃様」

 リボルと違い下位のアセナにも丁寧である。

「第三位皇妃様はもうお起きでいらっしゃいます。朝餉をお召し上がりになっておりますゆえ、いましばらくお待ちくださいませ」

 宦官は戸を開け、アセナを主寝室の控えの間へ導いた。

「アセナ妃様へ召し上がっていただくよう、言いつけられております」と言いながら、琥珀色の茶とリンゴやベリーの入った焼き菓子バスチラをアセナの前に並べる。

 カルロッテが好んで食べるこの菓子(パスチラ)は、第三位皇妃のふるさとが発祥の菓子だ。
 数百年前に交易によってパシャに伝えられ、今では各階層まで広く浸透していた。高価なハチミツと砂糖をふんだんに使い庶民にとっては“ちょっとしたお祝いの時に食べる菓子”である。

(ハレの日の菓子が普段用だなんて。さすが皇妃様だわ)

 アセナは遠慮なく口に放り込んだ。
 ほろほろと崩れ、強烈な砂糖の甘さとリンゴのすっぱさが広がる。甘く美味しい。美味しいのだが、口の中の水分が一気に奪われ、軽くむせる。アセナは急いで茶で流し込こんだ。
 琥珀色の茶も日ごろアセナが愛用している茶葉と違い明らかに上等な味と香りがした。強い後見と皇妃という立場でになって初めて手に入れることができる贅沢だ。

(まぁ身の程を知るってことだよね。私には身に余る贅沢ね……)

 アセナは茶の入った器をテーブルに置き、息をついた。



 控え室にはアセナ1人だけだった。
 動くものは茶から湧き上がる湯気だけだ。ゆらりゆらりと昇っていく湯気をぼんやりと眺める。
 アセナは昨夜の出来事が次々と頭によみがえった。

 月光が降り注ぐ中庭。
 恋愛詩(ガゼル)。月の丸さ、ウガリット茶の湯気、心地よい乳香の香りとアスランの秀麗な顔立ち。優しく触れられた手と……口付け。

(陛下とお話するなんて……)

 アセナは後宮に4年もありながら、直接皇帝と言葉を交わしたことはなかった。交わすことすら許されない数多くいる無位の妃の1人であるからだ。
 実際にアスランの顔を見たのは、後宮に入ってすぐ同期の宮女達と皆で拝謁した時だけだった。
 
 後宮で一番寵愛を賜っているカルロッテ皇妃の部屋子。
 その中でも最も信頼され夜伽前後の世話も担ってはいる。それでも後宮の主人の姿影は見かけることもない。

 姿も見かけず噂だけを聞く存在は妄想だけで大きくなっていくものだ。
 無位の妃の仲間たちと話すうちに、アセナはこの国の頂点の人間は自分とは全く違う人種なのかとも思いこむまでになっていた。皇帝は完璧で完全な人種だと。

(血も通う私たちと変わらぬ人なのね)

 もちろん境遇は異なる。
 だが、同じ人間なのだ。神格化する必要もないだろう。

(いたずらに畏れることはないかも。でももう個人的には会いたくないなぁ。悪い予感しかしないんだもん……)
 アセナは2個目のパスチラを口に入れた。


 お茶にも菓子にも満足した頃、ようやく第三位皇妃の寝室へ続く扉が開かれた。
 寝室は朝のやわらかな朝日に包まれていた。
 木片で複雑な幾何学模様が組み合わされた大きな窓が壁一面を覆い、いたるところに職人の粋を集めた細工飾りが施されている。格式の高さをうかがわせた。
 アセナは宦官の後について室内を進む。
 
 部屋の一番奥まった出窓(マシュラベーラ)に設えられた長イスに、小柄な影がもたれかかって座っていた。アセナを認めたのか、気だるそうに顔を上げた。
 
「おはよう、アセナ。待たせたわね」 
 
 この宮の主人、第三位皇妃カルロッテである。
 パシャの女性の平均よりも小さく華奢な肢体は、見る者に何も知らぬ少女のような無垢な印象を与える。目を離すと消え入りそうな儚いその姿は如何にもか弱い。
 アセナはカルロッテの側に寄り跪いた。

「いいえ、とんでもございません。軽食のご用意等ご配慮ありがとうございます。カルロッテ様。お顔の色が優れないようですが、お加減いかがですか?」
「悪くないわ。大丈夫よ」
 
 カルロッテはゆっくりと体を起こした。
 輝くような金の髪がさらさらとこぼれ落ち、潤んだ碧眼は男女問わず庇護欲を誘う。

「心配してくれてありがとう」

 カルロッテは可憐に笑った。
 北の国の信仰に“天使”というものがあるらしいが、もしもこの世界にいるのだとしたら、このカルロッテのことを言うのではなかろうか、とアセナは思う。

 カルロッテはパシャの北辺を国境を接する国ヴレットブレートの姫である。
 現国王の姪にあたり、4年前、アスランが皇帝として即位したと同時に後宮に輿入れした。
 ここ数年、国境周辺で両国の小競り合いが絶えず関係が悪化の一途であることを憂いたヴレットブレート王が、それを緩和させ解決の道標として姪をパシャに献上したのだ。
 皇妃という名の体のいい人質だった。

「それよりね、アセナ。大変なの」
「いかがなされました?」
「陛下がこの宮にいらっしゃるらしいのよ。今日のお昼に」
 今朝使いがきたのよ、と皇帝の印章が押された手紙をアセナに見せる。

「それは急ですね。昨夜もいらっしゃったばかりではないですか。それなのに昼も第三位の宮にいらっしゃると?……カルロッテ様、陛下に深く愛されておいでなのですね」
「……あぁアセナ。すこし違うのよ。陛下は頻繁に通っていらっしゃるけれど、私に何の感情もお持ちではないの」
「え?」

 カルロッテは曖昧に微笑むと、

「まぁこの話は止しましょう。今はお昼の御接待が大事よ。皆こちらへ」

 皇妃付きの宦官と女官を数名呼び寄せた。

「陛下は中庭でのお食事をご希望らしいの。東屋(コーシュク)天幕(テント)の下でくつろがれたいのですって。もう時間もないけれど、準備のほうお願いするわね。出来る限りのおもてなしをしましょう」
「承知いたしました」

 リーダー格の女官と宦官が手際よく指示をして、それぞれに仕事に移った。
 カルロッテは小さくため息をつき、アセナを見上げる。

「無位の妃も全員同席するように指示があったわ。部屋子の皆にも伝えて? アセナも気が進まないだろうけど、必ず私の側で控えていてね」
「……畏まりました」

 面倒なことになった。
 昨日の今日で、再び皇帝と顔を合わせないとならないとは。
 あれほど辛かった眠気もどこかへいってしまった。胃の辺りに重さを感じ、アセナは皇妃の部屋を辞した。
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