きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~

第2話:すべては月のせい。

「あぁこれは皇帝陛下、御耳汚しでございました」

 ひれ伏したまま、リボルは声を震わせた。
 リボルやアセナは許可なくして皇帝の“お目見え”が許される地位ではない。時間をみて姿を見られることのないように主寝室の控えの間に戻るのだが、今夜はお出ましがいつもよりずいぶん早かった。

「顔をあげよ」

 アスランは苦笑し、

「この満月の元で朗読を聞けるとは思わなかったが、なかなかよかった」

 とあまりに恐縮する二人を慰めるように言った。リボルはうっすらと涙を浮かべ、頭を下げる。

「ありがとうございます!」

 下級の宦官が皇帝直々に声をかけられようとは! しかもアセナの教育を褒められるとは! 光栄の至りだ。

「宦官、近衛を呼んで参れ。早いが宮に戻る」

「御意」と深々と頭を下げ、リボルは中腰のまま後ずさると音も立てずに中庭を出た。
 アスランはリボルが去るのを確認しアセナに顔を向けた。

「無位の妃よ」

 アセナはビクリと身を強張らせる。

「茶をいれてくれ。のどが渇いた」

(ええ?? 私が陛下のお相手する?? しなきゃだめ??)

 しばらく……実際にはほんの数秒だったが……考え込み、やがてアセナは観念した。

(逃げるわけにもいかない、か)

「畏まりました。陛下。お待ちくださいませ」

 アセナはアスランに着座を進めると、慣れた手つきで盆に置いた小さな携帯用涼炉に火を入れた。
 アスランは気だるそうに絨毯の上に座り込み、ぼんやりとその様子を眺める。秀麗な顔に濃く疲労の色が浮かんでいた。

 即位して4年。

 リボルによると国内外の政情もかなり不安定になっているらしい。
特にパシャの北面に接する国ヴレットブレートとの緊張はかつてないくらい高まり戦の影も見えてきているという。
 強引ともいえる手腕で政を取り仕切っているが、類稀な政治力をもってしても、いたるところから綻びが生まれてきているのだろう。

(内に外に本当に大変な方ね)

 アセナは心底気の毒に思う。
 考えている間にふつふつと涼炉に湯が沸きたつ。簡素な茶器に湯を移し、茶を入れた。

「御体、ご自愛なさってくださいませ。どうぞ」
「ん……」

 アスランは一口すすり、手を止める。

「変わった味だな。どこの産だ?」
「南領のウガリット産の茶葉です。ウガリットの茶は心を穏やかにする効果があるそうです。陛下にふさわしい茶葉ではありませんが、夜に飲むのにちょうど良いのです」

 ウガリットの茶は高級品ではない。庶民が飲む茶葉ではある。
 ただ薬効が高く、アセナは夜こうして勉強をするときは好んで飲んでいた。
 すこしばかり発酵させた淡い香りは、昼間昂った精神を落ち着かせてくれる。入眠にもってこいだ。

 アスランは興味深そうに茶碗を回し、たちあがる香りをひと時愉しむと一気に飲み込んだ。

「……お前はカルロッテの部屋子か? 名は何と言う?」
「アセナ。アセナ・ウダ=バヤルと申します、陛下」
「ウダ=バヤル……ウダ族の出か」

 アスランは精巧な飾りの施されたランタンをアセナの顔の位置まで持ち上げた。
 ランタンの淡い光を映すアセナの瞳が青から若草色に変わる。
 アスランは驚嘆の声を上げた。

「これが噂に聞く『ウダの碧玉』か。不思議な色だ。ウダの民は皆この色なのか?」
「いいえ、濃淡の差はありますが、ほとんどが青色です。私のように瞳の色が変わるのはウダの民のなかでもそうはいません」
「おもしろいな」

 興味が尽きないようで、アスランは何度も角度を変えてアセナの瞳を覗き込んだ。

(うわあ、近い……)

 ふわりと森の中に居るような……乳香の香りがする。アセナは久しぶりに出会う雄を感じさせる”完全なる男性”を前に、なんとなく落ち着かなかった。

「月明かりとランタンでは限界があるな。陽の下では違うのか?」
「はい。明るい場所ですと薄い緑に、時に黄味がかかるように見えることもあるようです。陽が欠ける場所では緑と青が混ざったような色になります」
「……なんともめずらしい。ウダは古くより他民族と混血してきたというが、お前の瞳はその集大成のようなものなのだな。興味深い」

 アスランはアセナの瞳を見つめた。
 ウダ族は伝統的に交易や出稼ぎをする者も多い。よって色々な民族との婚姻が進み、長い時間を経て黒髪と碧石の瞳を作り出した。容姿の麗しさとしなやかな肢体はウダの民の特徴となっている。

「黒い髪にここまでの淡い瞳はなかなかいない。……美しいな」
「そ……そんなもったいないお言葉。ありがとうございます」

 アセナは動揺した。

(男の人に美しいって初めて言われた!!)

 わずかに頬が赤くなる。そういわれると嬉しいものだ。お世辞だとしても。『ウダの碧石』をほめたのだとしても。
 心の揺らぎを察されないように、アセナはアスランの空になった茶碗に茶を追加した。

「陽の光の下で見てみたいものだな」

 二杯目の茶を口に運びながら、残った手でアスランはゆるりとアセナの頬に触れる。

「妃にウダの娘がいるとは知らなかった。また話を聞かせてくれ」

 優しくかすかに甘さを含んだ声に、アセナは狼狽した。声も出せず必死に頷く。
 その様子にアスランは声を上げて笑った。

初心(うぶ)すぎだ」

「……!」
(仕方なくない? 経験ないんだもの……)

 アセナは顔を真っ赤にしアスランを睨んだ。からかわれるのも慣れない。というか、男性に不意に触れられるのも経験がない。
 緊張のせいか気持ちは高揚し心臓が早打つ。

「そんな顔をするな。妃《つま》を触ってはならぬという法もないだろう?」

 アスランはアセナの頬を、今度は両手で撫ぜ顔を寄せると「また茶を入れてくれ。美味かった」と低く囁き、そっと頬に口付けた。

(ええ?? 今何を??)

 アセナは自らの頬に手をやる。言葉も出ず、体も動かない。
 アスランは満足したかのようにアセナを眺めた。何も知らない相手をからかうのは至上の喜びだ、とでも言っているような表情である。

「……陛下。そろそろお戻りになられませんと」

 背後からアスランを呼ぶ声がする。
 リボルから連絡を受けた近衛兵が主人の指示を待っていた。
 アスランは立ち上がり、「ゆっくり休め。アセナ」と穏やかに微笑むと第三位皇妃の宮を後にした。

 皇帝の背中を見守りながら、アセナは心のざわつきと何ともいえない居心地の悪さを感じた。
 一瞬、今までになく昂った。

(うん。きっと満月の光と乳香のかおりのせいね)

 月の光は心を狂わせる。アセナは全てを今宵の月のせいにすることに決めた。



「陛下ととても良い雰囲気でしたね? アセナ様」

 振り返ると、いつの間にか戻ってきていたリボルがにやついた笑いを浮かべていた。どっぷりとした腹をさすりながら、満足そうだ。

「陛下にお目見えできてよろしゅうございました。最初の一歩がようやく来ましたね。リボルの夢が少し前進いたしました」
「何言ってんの? リボル。恐れ多いこといわないでくれない? それよりカルロッテ様のお世話に行かなきゃ。お待たせしてはまずいわ」

(宮女の存在意義から否定しちゃうけど、できれば無位のままでいたい)

 各国から送られた姫がいる後宮(ここ)で、強力な後見人のいない自分が安穏に生き残れるなど有り得ない話だ。
 後宮を出るまで気楽なままで日々を過ごしたい、アセナのささやかな願いだった。
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