【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
“お疲れさま”、不思議とその言葉がとても残業をして疲弊した体に染み込んでくる。コーヒーを飲んだ時と同じような感覚だ。今日は朝から部署内で仕事の不備が見つかり、その作業と通常業務で忙しかったのだ。昼食をとったのも14時くらいで、1時間も休憩する間もなかった。もちろん定時に帰ることはできなかったが、それでも残業を1時間で終えられたことは奇跡だった。思い出すだけでも体が重くなっていく。その疲れを取るためにも、どれだけ残業しようと喫茶「ベコニア」に行かない選択肢はなかったのだ。

「私のこと、知っていたんですか」
「もちろん。常連のお客様は覚えていますから」

「いつも火曜日と木曜日に来てくれますよね」と桐山さんは微笑みながら少し長めの前髪を揺らす。来る曜日まで把握されていたことに驚きを隠せない。が、そんなことどうでもいい。それよりどうか私が人間観察のためにチラチラと彼を目で追っていたことには気づいていないことを祈る。

「・・・じょ、常連、ですかね。私。」
「夏の終わり頃からずっと通ってくれるお客様は、立派な常連ですよ」

なんだか恥ずかしくなってきて、手元のコーヒーに視線を戻した。私の姿は彼の綺麗な瞳からコーヒーに映る。あぁ、落ち着く。

「僕は桐山水樹といいます、よろしくお願いします」

他の常連からではなく本人の口で告げられた“桐山水樹”という名前。その7文字がストンと胸の中に落ちていく。パッと再び顔を上げると、彼と目が合う。そして「今日はもう来ないのかと思っていました」と困ったように笑った。その美しい微笑を向けられ、再び思考が固まってしまう。

「・・・は、橋本奈央です。今日のコーヒーもとても美味しいです」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」

お店の照明が暗くて良かったと思う。今、絶対に顔が赤い気がする。もう1度言っておくが、ただ彼の綺麗なお顔を拝見したからであり、別に好きとかそいうわけではない。

 ここで喫茶店を開いたのは、桐山さんの祖父。今は少し離れた場所で奥様と2人で暮らしているようで、そのタイミングで桐山さんがそのままお店を引き継いだらしい。お爺様は時折店が恋しくなっては、突然ここへ戻ってきて営業をしているとのことだった。

会ってみたいと、そう思った。

この喫茶店を開いた人は、その手でどんなコーヒーを淹れるのだろうかと。血筋は同じであろうと、桐山さんが淹れたものとはまた別のコーヒーに感じるのだろうかと。一体、どんな魔法を私にかけてくれるのだろうかと。
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