【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
「橋本さんは何のお仕事をされているんですか?」
「普通のOLです。極めて普通の。」

出勤から帰るまで社内にこもり、そのほとんどの時間をパソコンと向き合って過ごす。ずっと接客をしている彼とは全く違う業種であった。残業もほとんどなくこのご時世の中で超ホワイト企業だが、そのあとは合コンや飲み会に行くこともない。直帰するか、喫茶「ベコニア」にいることがほとんどである。普通の毎日を過ごしているただのOLをしているのだ。

「普通?」
「普通です。この仕事帰りの一杯のコーヒーを楽しみにしているただのOLです」

もう残り少なくなったコーヒーカップを手に持ちながらそう言うと、少し間を置いて桐山さんは吹き出すようにプハッと笑った。何かおかしなことを言ったのだろうか。そう首を傾げていると、少し目尻を下げた彼は「すみません」とまた微笑む。

「橋本さんは、本当にコーヒーがお好きなんだと思って」
「そりゃあそうですよ。私の生きがいですからね」

少し自慢げな顔をすると、彼は「ありがとうございます」と丁寧に返す。その丁寧さを感じる声色と動作に思わず私も反射的に会釈をしてしまった。目が合って、お互いにクスリと笑いをこぼす。

「桐山さんは、どうしてこのお仕事をしようと思ったんですか?」
「んー・・・何となく、かな」

少し間を置いてそう答える。予想外の回答に思わず「え?」と声を漏らす。コーヒーが好きだからとか、この喫茶店が好きだから、とかそんな答えだと思っていたのだ。それ以上に会話を広げることもできずに、それ以上私が口を広げることはなかった。


「僕、小さい頃は両親が仕事で忙しくてしばらく祖父のところに預けられていたんです」

そうポツリと、桐山さんは話し始めた。決して家族仲が悪くなかったが、両親の仕事の都合でやむお得ず祖父母と一緒に過ごす時間が多かったらしい。とは言っても祖父母も喫茶店で働いているため、学校帰りには此処にきて宿題をしたり時々お手伝いをしておこずかいをもらっていただとか。幼い頃からこの喫茶店に出入りし、祖父の仕事姿を眺めるうちにこの職業に憧れていたらしい。きっと大人びた子供だったのだろう。私の小学生時代の同じクラスの男の子はだいたいスポーツ選手やヒーローだったような気がする。

そのまま大人びた子供のまま成長している彼は、コーヒーカップを手に持ち大切そうに見つめた。

「祖父が淹れたコーヒーを飲むと、みんなが笑顔になる。このたった一杯の数百円のコーヒーに一体どんな魔法をかけたんだろう。そう子供ながらに興味津々でした」
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