【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
「それは、私も分かる気がします・・・」

どんなに仕事が、例えば今日みたいに大変でも、このコーヒーを飲めば一気に疲れが吹っ飛んでしまう。思い返せば、あの日だってそうだった。心も体も疲弊していた時、ふらっと立ち寄った喫茶店で飲んだ一杯のコーヒー。まだ震える指先で、手が滑って綺麗なカップを落としてしまわないようし、そっと口に運んだ一口目。たった一口なのに、その温かさが体中を駆け巡った感覚を今でもよく覚えている。

「桐山さんの淹れるコーヒーって、誰が淹れたものよりも美味しいんですよね」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
「でも、まだまだ修行の身ですよ。今は祖父の時からの常連がほとんどで、皆は美味しいと言ってくれるけど、祖父の淹れたコーヒーを飲むとまだまだだなって、思います」

あの日、とてもひどい顔をしていたのに、ふっと笑みがこぼれるような魔法をかけられたのを今でも覚えている。

「僕が淹れたコーヒーで、大切な人を笑顔にしたい。今はそれだけです」

そう話してくれた桐山さんは、とても慈悲深く、優しい表情をしていた。

 

 ふと、窓の外に視線を向けてみると、軒並み連ねる商店街の所々に赤や緑、黄色の光が灯っていた。ここまでくる間にも通ってきたが、2階から見下ろすこの景色もとても綺麗である。

あぁ、もうすぐクリスマスか。

そう思いながら携帯の画面を見ると、11月30日。もうクリスマスまで1ヶ月を切っていた。それどころか年が明けるまで1ヶ月である。1年とは早いものだ。夜になれば閑散とするこの商店街も、12月入るとクリスマス一色になる。ここから少し歩いた場所にある広間には大きなクリスマスツリーが飾られるのだ。遊びに来た人が飾り付けができるようにオーナメントが用意してあり、家族連れやカップルはもちろん、とにかく人が多く集まってくる。まだ11月だから今は所々にしか飾られていないが、12月に入ればこの商店街は一気にクリスマスモードになるに違いない。

独り身の今、今年のクリスマスは1人で過ごすことになりそうだ。残り1ヶ月のうちに恋人を作ろうなんて、そんな映画のような奇跡は期待していない。

でも不思議だ。

「もうすぐクリスマスですね」
「実は、クリスマスシーズン限定で仕入れる豆が明日から入るんですよ」
「それはとても楽しみです」

何だが全然、寂しくない。そう思うほど、このコーヒーの香りに包まれて過ごすこの時間が、この場所が、好きで、気に入っているんだろう。
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