黒猫は夜の蝶とまたたく〈改〉
 警察官を志したのは、父がそうだったから。何かになりたいというよりは、そうなるのが当たり前だと思っていたので、疑問は無かった。常に一番である必要は無かったけれど、目指すものは決まっていたせいか必然夢が決まっていない同級生達よりは成績が良かった。友達は多くはなくて、狭く深く。仕事柄話せることもそんなに多くは無いから、今となってはそんな交友関係で助かったと思ってる。広く浅くだったら、きっと今頃友達と呼べるものは居なかったと思う。
 父は殉職した。私が警察学校を卒業する目前に、非行少年を取り締まっていたところを、その仲間に刺されたそうだ。だからというわけでは無いし、その時父を刺した少年はきちんと捕まったけれど、何となく父の背中を追ってこの道へ進んできた私はいま、父と同じ少年課で警察官として生きている。
 母は最初から居なかった。父は理由を話してはくれなかったし、私も聞こうとは思わなかった。その環境が当たり前だったから。
父は仕事人間だった。幼い頃に家事の一切を教えてくれた以外は、あまり関わった記憶が無い。仕事で帰らないことの多い人だったし、たまに帰ってきたかと思えば部屋に篭ってほとんど会話も無かった。だからか、心のどこかで愛されたいと私は強く思っていた。

 その日は雨が降っていた。大雨ではないけれど、傘をささなければしっとりと服が重たくなってしまうような、そんな天気。私は今夜も夜間の見回りに出ていた。
「加藤巡査」
バディの佐々木ーー目元が窪んでいて、背の高い男らしい青年ーーから呼ばれた私は、つんと皺を寄せていた眉根を緩める。
「もう時間?」
一頻り繁華街の見回りをして、そろそろ交代の時間だった。今日も賑やか、というよりは騒がしいこの街だけれど、現代のストレス社会で忙殺された人々の心を癒すある種のオアシスは、今は必要な場所だ。必要、とは言っても"ルール"は守らなければならないけれど。そのルールの一端を取り締まるのが私の仕事だ。
「戻って報告書でも書きましょうかね」
今日は何事もなさそうね。とそう思いながら踵を返そうとしたとき、不意に柔らかな甘い香りが私の鼻を掠める。この街にはありがちな、作られた香り。いつもならもう慣れっこなそれをこんなに気に掛けることはないのだけれど。今日は何故だか気になってしまった。

 香りの方向を振り返ると、そこにはいかにも幼い顔立ちの青年が外壁に背を預けていた。あー…残業かな…オフに切り替わりかけていた頭を叩き起こしながら、私は青年に声をかけた。
「ちょっとそこの君」
その声を無視するでもなく、青年はゆっくりとこちらを向く。やはり、背格好こそ大人のそれでも、顔立ちは少し幼い。
「なあに、おねえさん。俺を指名してくれるの?」
にっこりとほほ笑む青年に、悪意は全く感じられない。けれども、ダメなものはやはりダメ。警察手帳を出しながら、青年に問うた。
「あなたいくつ。少し若く見えるけど?」
慣れた手つきで、後ろ手に佐々木へサインを送った。逃げられては面倒なので、私の視線の先――青年の背後――に体格の良い佐々木を配置する。白でも黒でもどちらでもOK。これで準備は整った。青年の回答を待つ。
「…うーん、わからない」
よく耳にする回答だ。すでに酔っているのか…。呆れもなく、至極真面目に質問を続ける。
「ふざけるのなら、強引だけど”公務執行妨害”であなたを強制的に連れていくこともできるのよ」
視線の向こうの佐々木が体勢を整える。私も少し腰を落とし、青年を威嚇する。それでも青年は慌てる様子もなく、むしろ困ったように笑った。
「あのね、おねえさん。俺、本当に自分の歳知らないんだ。多分、ここで働いちゃダメな歳ってぐらいしかわかんないの。だから、そうだなー…、一緒にオーナーのところに来てくれない?俺一人でどっか行ったら怒られちゃうから」

 違法ではないな。それが第一印象。店構えも”ぎらついている”、というよりは古参客への配慮を重視したような、趣のある造りをしている。店の中も、ホストクラブというよりはラウンジに近いような、閑散とはしていないのに落ち着きのある様子。その奥の個室のさらに奥、バックヤードに私たちは居た。
「逃げるつもりも隠すつもりもありやしませんよ。ただレオの素性を証明できるものなんて無くてね。見かけ5、6歳の頃に早朝道端で転がってたんだ」
そう話すのはこの店のオーナーの苅田という男。営業許可証や、飲食業の許可。その他諸々はきちんと書類も揃えているのに、唯一レオと呼ばれる青年にまつわるものだけが不確かだった。
「じゃあなぜその時分に警察に届け出なかったんですか、このままだとあなた立派な誘拐犯ですよ」
青年の名前はレオ。苗字も分からず、レオさえ本当の名前かどうかが分からない。オーナーの苅田に幼少期に拾われて以来、ずっと苅田と共に生活をしてきたとのことだ。にわかには信じがたいが、街の特性上騒ぎ立てる人間も少なく、むしろ好意的にレオを受け入れた環境はそのまま時がたち十数年は過ぎていた。
「まあなんだ、あれだよ。最初は確かにレオの調子も悪そうだったから、数日したらちゃんと連れていくつもりだったんですよ。ただねぇ、そのうち愛着ってえか、こいつの笑顔と離れがたくなってねえ。そうこうしてるうちに今になったってえか…、まあ言い訳だなー…」
ふうっと紫煙をくゆらせながら、苅田は困ったように笑った。すると、「ねえ、おねえさん」とそれまでじっと黙っていたレオが不意に口を開いた。
「俺の歳がはっきり分からないと、オーナーを連れてはいけないよね?」
腰かけた椅子に手をかけて、足をパタパタとしながらレオが話を続ける。
「俺もね、ずっとオーナーにお世話になりっぱなしも申し訳なかったし、そろそろ本当の自分が知りたいとは思ってたんだ。だからさ、おねえさんたちのお仕事的にはこのお店が”未成年を働かせてる”ってのも証明したいんだよね。…だったらさ、俺を連れてってよ」
んっと、両手を惺子に向けて差し出すレオ。それを見た佐々木は、豪快にははっと笑う。
「キミ、補導じゃ手錠はかけないよ」
素直なことは好都合だけれども、自らお縄にかかりに来るなんて。私はその時、なんて馬鹿な子なんだろうとった。その後、結局勤務時間があまりにも超過していた私は、署に戻るとそのまま帰宅の流れとなり、レオの聴取は夜勤に引き継ぐこととなった。

 数日後、休日の私はお昼頃まで部屋でごろごろとした後、お昼ご飯を買いに近所のコンビニへと出かけた。
しかしこれが運の尽きだった。昨日まで確かに署にいたはずのレオが、コンビニでお弁当を片手に立つ私の前に居た。
レオ曰く「調べても調べても俺の素性が分からないから、いったん保釈なんだってー」だそうだ。
更にはレオを調べている間に苅田は店を引き払って雲隠れしてしまった。それについて、口裏を合わせていたのかとレオを問い詰めたけど、本気で意気消沈しているようなその様子は、とても計画的とは思えなかった。
そして今の状況についてだが、苅田が居なくなった今、彼に帰る場所はなく、コンビニでたまたま私を見かけたレオは、私に帰る場所を縋ってきたと言う訳だ。
帰る場所が無いのは調査の時点で判明している。自分の挙げた山をこのまま野に帰してしまうのは惜しい。
だからなのか、自分の甘さなのか、無下に追い返すことの出来なかった私をよそに、ずかずかとレオは着いてきて、とてとてと部屋に上がり込んだ彼はそのままベッドで寝息を立て始めてしまった。
釈放されているとは言え未成年のレオを、このまま何の手立てもなく部屋においておけば、それは先日自分が苅田へ放った言葉が特大のブーメランとなって返ってくる。
とりあえず退路は確保せねばと、スマホを手に取った私はあの日のバディの佐々木にメッセージを送った。
”レオは案件再開までうちで確保してます。”
何故自宅なのかと言われればそれはまたその時に言い逃れを考えようと、私は端末を枕元に置く。
その少しの振動に反応したレオは、悠長にむにゃむにゃと何かを言っていた。さてこれからどうするか。
必要最小限の荷物しか持っていない身の丈に合わせて、間取りも1Kと最小限の部屋で、男女二人の共同生活はあまりにも間仕切りがなさすぎる。
生活の導線を、混乱した頭を奮い立たせながら、私は必死にひねり出していた。

 人肌よりも温かい雫が、頭から足先へ伝っていく。考えても仕方がないと、ひとまずシャワーを浴びる私の悲鳴が響き渡るまでにはそう時間はかからなかった。温度に違和感のないそれは、するりと触れた感覚で初めて人の手だと分かった。自分の腰に回された両腕に気づいた私は、特大の悲鳴を上げる。
「おねえさん、俺だよ」
うしろから囁くようなその声の主はレオだった。叫ぶ私の口元にそっと右手を当てがう。
「ちょっと、あんた!なんの真似?!」
ふがふがと抵抗する私をよそに、落ち着いているレオは「俺も入っていい?」とにっこりと笑う。
「ダメに決まってるでしょう!!入るなら私の後!!!」
めいっぱいの抵抗でなんとかレオを浴室の外に押しやった私は、一人暮らしで習慣から抜け落ちていた浴室入口の施錠をする。ちぇーっという扉の向こうのレオを力いっぱい睨みながら、触れられた腰のあたりがなんだかむずむずとしているようで、勢いよく頭からまたシャワーを浴びた。扉の外のレオはというと反省する様子もなく、すぐそばの冷蔵庫を早速漁り、流し台の水切りに伏せてあったグラスに麦茶を注ぐと、ひと煽りした。
「んー、俺外したことないんだよねー…。Dだな」
ふむふむと顎に手を当て、意味深げに呟いたのと、浴室内で私が洗面器を扉に投げつけたのは、ほぼ同時だった。けたけたとレオの笑い声がする。早速居心地良さそうに過ごすレオの姿に、私は頭を抱えた。
 今回もまた然り。どうしてこうなった。私のあとに続いてシャワーを浴びたレオには、捨てそびれていた――過去にお付き合いをしていた人の――部屋着を着せた。
「おねえさんの服ではないよね…、あれ、俺お邪魔虫?」
きょとんとするレオに、ホットミルクのカップを差し出しながら、私は苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「元カレのだから気にしないで」
わしわしと前髪を掻き上げて、自分の分のカップを置くと、私はレオの向かいの床に腰かけた。
「なんで、そっち?」
心底不思議そうに首を傾げたレオは、当たり前だと言わんばかりに、するすると器用に移動すると、私をすっぽりと後ろから抱き込んだ。
「あんたねえ…ちょっとパーソナルスペース狭すぎるんじゃないの」
はあとため息をつきながら、先程の浴室への侵入ほか奇行の多いレオに付き合いきれなくなってきた私は、すでに甘んじて抵抗を諦めていた。今回は抵抗を見せない私に気をよくしたのか、レオはまるでおもちゃをもらった子供の様に、ぎゅうと私の背中を掻い抱く。
「ぐえ」
色気のない声が出たけども、レオはそれをふふっと笑いながら、何故かとても幸せそうな顔をしてる。
「あ、てことはおねえさん今フリー?」
私の顔をのぞきこみながら、レオは爛々と目を輝かせる。
「改まって言わなくてもそうよ。言わせないで」
やめてちょうだいとレオの顔をぐいと押し戻す。やったあというレオの小さな歓声が聞こえた気がしたけれど、私は聞こえなかったフリをした。

 次の日。まだ午前中だというのに、やたら疲れているのは多分昨日のレオとの攻防のせい。結局寝る場所を決めるのにもひと揉めして、なんとか落ち着いたと思って別々の場所で寝たはずなのに、朝目が覚めたら目の前にはレオの寝顔があった。揉めた意味も消え去ったし、何より貞操観念…。なのに疑惑といえど相手はまだ未成年で、同衾している三十路手前女史だなんて、犯罪手前…いや、犯罪だ。佐々木にレオを確保しているとは連絡したけれど、自宅が1Kと知れたらさすがにまずい気がするので黙っておこう。
 今日は内勤だ。見回りは他の人が出ているから、寝不足には最適。だからといって職務を怠る気はないけれど…。あくびを噛み殺しながら、連日絶えることなく起こる問題の報告書を仕上げる。どうしてこう世の中は問題ばかり、いや問題しか起こらないのだろうか。ああ、眠たい。小声で呟いたはずのそれは隣の席のミーハー女子、中野にはしっかりと聞こえてしまっていた。
「え、加藤先輩。もしかして彼氏できたんですか?」
どうしてそうなる。最近の若い子はどうしてこう、すぐに脳内お花畑なんだろうか。
「できてたらもっと、こう、幸せな溜息吐いてるわよ」
うんざりと返すけれど、中野は納得しない。ぐいぐいとこちらに耳を寄せて、「で、ほんとのところは?」だなんて聞いてくる。ああ、うっとおしい。走らせていたボールペンのキャップをしめて、回答を待つ中野の耳にぷすりと差し込む。ひゃうっだなんて変な声を上げた彼女に周りの視線が集まった隙に、私はそそくさとお手洗いに逃げ込んだ。
 便座の蓋を閉めてその上に腰かける。まるで小学校なんかによくある、考える人の像のように、頭を抱え込む。もうあと10分ほどで昼休みになるし、このまま少しさぼってしまおうか。そういえば朝家を出るとき、まだレオは起きていなかったけれども。書置きはした。でも、お昼ご飯はちゃんと食べるだろうか。彼氏の心配というよりは、まるで弟を心配する姉や、子を思う母のような自分の思考に思わず苦笑いしてしまった。
「私なにやってるんだろう……」
正直、依存体質な自分の家に誰か――彼氏でも何でもない、取り調べ対象だけれど――がいるのは心地良い。まんざらでもなくなっていた自分に気が付いて、一気に血の気が引いた。
”何を思い上がっているのか”
そうだ、私は警察官。公私の混同は一番してはいけない。いくらイレギュラー――レオが自宅に居る――といっても、それしきりで動揺していいものか。うろたえるな私。乗り越えるんだ。そう決意を新たに、私はお昼ご飯を食べに休憩室へ向かった。

 夕方。帰り着くと、マンションの廊下に、嗅ぎなれない匂いがしていた。単身向けのマンションなせいか、自炊をする人間はあまり多くはない。大方みんな仕事で疲れて帰ってきて、出来合いの総菜でも食べているんだろう。それなのに、今日はなぜか私の部屋のある階から、美味しそうな匂いがしていた。まさか、いや。でも、まさか。そう思いながら、玄関のカギを開ける。扉を開くと、廊下のキッチンで鼻歌を歌いながら調理をしているレオが目に入った。
「え……」
驚きの状況に、それ以上の言葉が出ないでいると、私に気づいたレオが「あ、おねえさんおかえりー」とにこやかに笑いかけてくる。いや、おかえりーじゃなくて…。
「ちょっと、何してるの。そんな媚売るようなことしなくたって、あんたのことはちゃんと面倒見るから」
だから、正直期待してしまうような、そんな振る舞いをしないで。本音を隠しつつ、やんわりレオを制止する。
「媚は売ってるけど、俺が好きでしてるだけだから気にしないで」
けらけらと笑いながらレオは制止をするりとかわす。そうこうしている間にも、ミニテーブルの上にはほかほかと湯気をたてるオムライスと、サラダがふたつずつならんでいく。結局、スーツを脱いで部屋着に着替えている間には、晩御飯の用意が完璧に整っていた。
「これでも忙しいオーナーに代わって、毎日家事はしてたんだからね」
得意げに話すレオをよそに、私のお腹は正直すぎるほどにぐうと音を立てる。ああ恥ずかしい……。その様子に笑うでもなく、レオはただにっこりとほほ笑んで、私が目の前のそれを口に運ぶのを待っている様子だった。別に、居候代を払って貰ってると思えば…そんなことを思いながら、私はスプーンで一口、オムライスを食べる。
期待してなかったと言えば嘘になる、けれど、期待をしては外れた時の傷が大きいから、期待をしないふりをしていたのだけど。それは色んな期待を裏切るように、とてもおいしかった。
「おい、しい……うん。」
そういえば私、いつも相手に尽くしてばかりの人間だったから、こんなふうにおかえりって言ってもらえて、ご飯を用意してもらうのは初めてもしれない。昔から母のいない生活で、仕事からいつ帰ってくるかも分からない父を待って、一人でご飯を食べるのが当たり前だった。大人になってからも、相手より自分が無理をしてでも先に帰り着いて、おかえりって出迎える側だった。初めての感情に、よくわからない気持ちになって、表情をどうしていいかが分からなくて、真顔になってしまう。
「ほんとに、おいしい……?おねえさん、嫌なら無理して食べなくていいんだよ?何か買ってこようか?」
心配そうにレオが私の顔を覗き込む。その瞳に偽りは感じられなくて、初めて案じてもらえる心地よさに、つい自分の身の上をぽつりぽつりと話し始めた。
「ずっと一人だったの、私。」
突然話し始めた私にレオは驚いた様子を見せたけど、さすがホスト。聞き手に徹するのはうまい。うん、と私に次を促す。
「母親は最初からいなくて、父親も仕事人間だったから全然関わりが無くて。昔から、馬鹿みたいに”警察官になる”って言ってきたから、突っ走ってきてて友達も少なくて」
ああ、そうか。私は……
「寂しかったのかもしれない。ちょっと不本意だけど、あんたみたいなのが居てくれて、初めて誰かと一緒って気持ちになって、戸惑ってたの」
どうしていいかが分からなくて、自分の中に無い選択肢は選べなくて、無になってしまっていたんだ。
「おいしいよ、ありがとう」
そういって初めて、私はレオに向けてほほ笑む。そういえば、私レオにはいつも怒った顔か呆れた顔しか見せてなかった気がする。まあ出会った理由が補導だから、仕方のないことではあるけど。
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