愛してる 〜必ず戻る、必ず守る〜

7話

 長雨の貴重な晴れ間。亮の部屋。加波子は亮の布団を干していた。

「そんなことしなくていい。」
「いや。私の気が済まない。」

 加波子は掃除を始めた。退屈な亮。

「俺コンビニ行ってくる。」
「行ってらっしゃい!」

 元気に亮を見送った加波子。しかし亮が部屋に戻ると、心地良い日差しの中、加波子はうたた寝をしていた。

 テーブルの上に、組んだ両腕に頭を乗せ、気持ちよさそうに寝ていた。よく見てみると左腕のほうが少し伸びている。袖はめくったまま。腕時計は外したまま。リストカットの痕が目に入る。亮はゆっくりその前にしゃがみ、そっとその痕に触れた。

 その時。

「ん…。」

 加波子は起きる。

「あ!布団!」

 加波子は慌てて布団をしまう。布団を敷く。何も気づいてなさそうで安心する亮。干したての布団の上に座る。加波子はその亮に背を向けるようにテーブルに向かって座る。それは加波子のほうからだった。

「聞かないの?傷の痕。」

 亮は躊躇する。

「…言いたくないこと、わざわざ言う必要ないだろ…。」

 亮が言い終わるか終わらないかの瞬間。

「レイプ。」

 亮は驚く。加波子からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。亮が戸惑う間もなく加波子は続ける。加波子は不動心。

「当時付き合ってた人と他2人。怖かった。本当に怖かった。でも何もできなかった。その時、冬で寒くて、周りに何もなくて、夜空と白い息しかなくて、その息を見ながら、私なんで生きてるんだろうって思った。」

 亮は聞きながらも思い出していた。それはふたりが初めて公園で会った時。加波子は言っていた。

『吐く息が白いと、あー生きてるんだなーって、思いますよね…。』

 亮はやけに心に響いたことを思い出した。

「それから私は色んなものを失くした。友達、夢、感情、私自身…。こんなことがこれからもあるなら、大人になんてなりたくないって思った。」
「もういいだろ。」

 耐えきれなくなったのは亮のほうだった。加波子は亮を見つめる。

「聞いて。亮には必ず話そうと思ってたの。だから最後まで聞いて。」

 亮は目をそらす。それでも加波子は続ける。

「後になって思ったのは、リストカットなんて、ただ傷痕を残したいっていう自己満だってこと。本当に死にたいなら、本当に死ぬ方法がちゃんとある。」

 レイプ、リストカット、死。加波子の口から聞きたくない言葉ばかり。亮は我慢に堪え兼ねる。

「やめろ。」
「それから…。」

 亮はベッドから降り、加波子の両肩を強く掴む。加波子の目を見て、亮は叫ぶ。

「やめろって言ってるだろ!」

 加波子は亮を見つめながら問う。

「ねえ、亮?」
「なんだ!」
「私うまく笑えてる?」
「お前、何言ってんだ?!」

 加波子の不動心はそのまま。

「感情って、なくなる時は一瞬で。でも取り戻すのはすごく時間がかかるのね。学校でも会社でも、笑ってなくちゃいけなくて。本当は泣いていたいのに、無理して笑って。だから作り笑いだけは得意になった。」

 亮は加波子の肩を掴んだまま。その肩が震え始める。

「もう随分前のことだし、ほんの数回しかないけど、その時の夢を見た後の恐怖…。悔しくて悲しくて…。また、私なんで生きてるんだろうって…。」

 加波子は下を向き脅えていた。呼吸が乱れ始める。

「私、亮にいつもうまく笑えてる…?」

 震えは止まらない。加波子はまた亮の胸元に手を当てる。

「加波子!こっちを見ろ!今お前の目の前にいるのは誰だ!」

 加波子は亮を見上げる。

「亮…。」
「そうだ、俺だ!そいつらじゃない!そいつらとは違う!」
「…うん…わかってる…。」

 加波子は今にも泣き出しそうだった。夢を見た後の加波子は、いつもこんなにも脅え、こんなにも悲しい目をしていたのだろうと思うと、亮はいたたまれなくなった。

 亮は加波子の頬にそっと手を添え、自分が目の前にいることを加波子に認識させるかのように見つめた。そんな加波子も亮を見つめ、心からの安らぎを初めて感じていた。そしてやさしく亮は加波子を包んだ。

 しばらく加波子は亮の腕の中。やさしく抱きしめられた加波子は震えも呼吸も落ち着き始めた。

「…お前はいつも笑ってるよ。すげー楽しそうに。俺に向けていつも。だから心配すんな。」
「ほんと…?」
「俺が嘘を言ったことがあるか?」

 加波子のアパートへの移動中。気づかなかった、軽く一雨降り、道路が濡れて、そして乾き始めていた。

 ふたりは手をつないで歩いている。亮の左手と加波子の右手。ふたり初めて手をつなぐ。なぜもっと早くにこうしなかったのだろうと、亮は思った。何の言葉もなくゆっくり歩くふたり。

 加波子のアパートに着く。それでもお互い、手が離れようとしない。その手を見る加波子に亮が言う。

「もし嫌な夢を見たらすぐ言え。すぐ行く。」

 それを聞いた加波子はゆっくり頷いた。

「それからもし、もしお前に何かあったらすぐ呼べ。飛んでく。いつでも、どこでも。冬でも夏でも、すぐ行く。」

 それを聞いた加波子は顔を上げ、そっと微笑んだ。

「ありがとう、亮。」

 手はつないだまま。亮は右手で加波子の頬をつまむ。そして亮も微笑みながら言った。

「笑った。」

 加波子は笑う。

 亮のおかげで、加波子はずっと忘れられず抱えていた過去から解き放たれた。呪縛から解放されたのだ。独り取り残されていた加波子を、亮は救った。

 亮は思い出していた。所の運動会。別室の男に言われたことを。

『守りたいものがあるなら守り抜け。自分の身を削ってでもな。』

「見て、亮。虹。」
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