【完】終わりのない明日を君の隣で見ていたい




「あ~、暑……」

 プールの底を磨いていたデッキブラシの動きを止め、先生が天を仰ぐ。その動きに合わせて、日に焼けにくい白い首を一筋の汗が伝った。
 16時を迎えたというのに、空にぽっかり浮かぶ太陽はまだまだ得意げな顔をして元気だ。
 わたしはデッキブラシを動かす手は止めないまま、先生を見て苦笑する。

「まだ5月なのに。先生って暑いの苦手ですよね」

 綾木くんの唯一の弱点は、暑さだった。夏が好きそうだと、勝手にそんなイメージを持っていたから、それを知った時はちょっと驚いた。

 すると先生がちょっと怪訝そうにわたしを見てくる。

「よく分かったな」
「えっ? あ、クラスの女子から聞きました」
「ふーん」

 咄嗟の言い訳でなんとかごまかせたのか、特に気に留めなかったのか、シャコシャコと先生が再びデッキブラシを走らせる音が空に響き始める。

 わたしと先生は、放課後、もうすぐプール開きを迎える屋外プール掃除をしていた。

 そもそもこういう展開になったのは、プール掃除を担当するはずだった松尾先生が、昨日腰を痛めたからだった。
 腰を負傷した影響で廊下でよろめいたところを、通りかかった先生が抱き留め、そこでケガのことを知ってプール掃除を替わると言い出したらしい。

 なにはともあれ、先生とふたりきりでプール掃除というこの大役を仰せつかったからには、暑さが苦手な先生の何倍も頑張るだけだ。
 ぽつぽつと額に浮かんできた汗を制服の袖口で拭い、床に落ちていたホースを拾おうとしてしゃがみ込んだ、その時だった。

「森下!」

 不意に名前を呼ばれてプールの底に向けていた顔をあげれば、太陽に被さるようにして頭上に向かってなにかが降ってきていることに気づいた。

「……あ」

 それがサッカーボールだと認識したのも束の間、咄嗟に避けることができず、身に降りかかるであろう衝撃に怯んで目を閉じた。

 ――バシッ。
 サッカーボールがぶつかる鈍い音と、痛覚が、――伴わない。
 デッキブラシの柄を胸の前で握りしめたままおそるおそる目を開けると、目の前に先生の後ろ姿があった。

 コロコロと、磨きたての地面を転がるサッカーボール。
 すぐに、先生が腕でサッカーボールを止めたのだということに気づいた。その途端、さっきまでの暑さが嘘だったかのように一瞬で吹き飛び、一気に体中から血の気が引いていく。

「先生、大丈夫ですか?」
「ああ」
「ケガは……!?」

 顔を真っ青にして気を動転させていると、先生が軽く屈んできた。そしてわたしの頭の上に、ぽんと手を置く。

「落ち着け」
「でもわたしのせいで先生が……っ」

 涙を溜めた目で先生を見上げれば、硬質だけど涼やかな声が落ちてくる。

「守るのは当たり前だろ。森下は女の子なんだから。それに、こんなことでケガするほど俺はやわじゃないから、そんなに心配するな」
「先生……」

 あの日よりもたくましくなった先生が、柔く微笑む。
 君はいつの間にこんなに大人びた笑い方をするようになったのだろう。
 ざわざわと、木々を揺らす風の音よりもうるさく、鼓動が脈を打つ。

 すると、そんな鼓動の狭間に、わたしたちのものではない声が聞こえてきた。

「うわ、ボール、プールの方行っちゃったじゃん」
「どうする? 取りに行けねぇよ」

 プールを囲うアスファルトの塀の向こうのグラウンドから聞こえてくるのは、ボールを蹴ったのであろう男子生徒たちの焦った声だ。

 先生は転がったサッカーボールをひょいと拾い上げると、塀に肘をかけてグラウンドを見下ろした。

「ほら、ボール」
「わっ! さきちゃん、いたの!? わりーわりー」
「サッカー部、コントロールしっかりしろよ。あと、その呼び方禁止な」
「ははっ、はーい」

 サッカー部にボールを返すと、先生が塀を離れてこちらに戻ってくる。そして、さっきの体勢から1ミリも動いていないわたしを見て、不思議そうな顔をした。

「森下? なに呆けてんの」

 ぽーっと熱に浮かされていたわたしは、そこでようやくはっと我に返った。

「な、なんでもないです……っ」

 慌てて顔を背けるように、猛烈な勢いで掃除を再開する。
 心臓がびっくりして、まだ早鐘を打ち続けている。
 どうしよう。真っ赤な顔はこの暑さのせいだと誤魔化せただろうか。

 ……先生、知ってますか? 女子は、好きな人から女の子扱いされるだけで、舞い上がれそうなくらい幸せになってしまうこと。



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