暗闇の中で
iPhoneを信仰する者たちとの対話は、いつも決まって同じ場所で破綻する。
藤岡恵というエンジニアと議論したときもそうだった。僕がiPhoneのアクセシビリティの裏側にある「癒着」や「システムの不備」を、エンジニアの視点で淡々と指摘した瞬間、彼女の中で何かが切れた。
「……もう、話にならない」
彼女はそう言い捨てて、遮断した。小林美香と喧嘩したときと全く同じ沈黙、全く同じ断絶。彼女たちの怒りは、単なる意見の相違から来るものではない。彼らが「障害者の味方」という看板の下で隠し持っている、iPhoneという聖域への依存――その「弱み」を鋭く突かれたことに対する防衛本能だ。彼らにとってiPhoneは道具ではない。彼ら自身のアイデンティティそのものであり、それを否定されることは、自らの存在意義を否定されることと同義なのだろう。
だが、サムスンのあのエンジニアは違った。
彼と本千葉の駅前で飲んだ夜のことは、今も鮮明に覚えている。僕がiPhoneの理不尽さを語り、日本の障害者団体の癒着について憤ったとき、彼は僕を否定も肯定もせず、ただ静かにキムチの皿をつついた。
「おい、秋生。そんなところで熱くなっても仕方がないよ」
彼は苦笑しながら、日本のキムチと韓国のキムチの違いについて話し始めた。
「日本のキムチがまずいか美味いかなんて議論したって、結局は好みの問題だし、変わらないだろ? それと同じさ。iPhoneを信仰する人間と、論理で話そうとするお前が噛み合わないのは、最初から土俵が違うんだ」
彼はそう言って、僕の空いたグラスにビールを注いだ。
「思考が違う相手に正論をぶつけても、ただお前が疲れるだけだ。ここはもう『なかったこと』にして、美味い酒を飲もうや」
その言葉には、エンジニア特有の冷徹な合理性と、人間に対する深い諦念が混じっていた。彼は知っていたのだ。システムに支配された人間は、自分の「宗教」を破壊されることを最も恐れるということを。だからこそ、彼は議論を放棄し、目の前の酒と、共に笑える時間という「確かな現実」を選んだ。
あの夜、本千葉の駅前で見た彼の横顔は、僕が見てきたどの論理的な回答よりもずっと温かかった。iPhoneの冷たい液晶の向こう側にいる「接続された人形」たちとは違う、泥を啜り、現実の味を知っている人間の、静かな強さがあった。
結局、正論は人を遠ざける。システムに毒された人間には、どれほど論理を積み上げても届かない。ならば、僕たちはその狂った世界を「なかったこと」にして、ただ自分たちの体温を維持することに集中すればいい。
「よし、なかったことにしよう」
僕もビールを飲み干した。iPhoneを聖典と崇める藤岡恵の顔も、オンラインで泣き叫ぶ美香の顔も、あの夜の闇の中へ消えていった。議論よりも大切なのは、サムスンのエンジニアである彼と、同じ酒を酌み交わしたという、その「非合理で、けれど確かな時間」だけだった。
システムの中で正しさを証明しようとするのは、もうやめよう。僕たちは、稲毛や本千葉の路地裏で、システムから零れ落ちた者同士として、ただ静かに人間でいればいいのだから。
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