暗闇の中で
秋生は窓の外を流れる景色を見つめながら、拳を強く握りしめた。
「そうだよ。だから今の時代、物語は死んだんだ」
君の言う通りだ。昭和の物語は、人と人が「摩擦」を起こすことを前提に成立していた。電車で吐いた女性、それを助けた男、汚れたシャツ、周囲の野次馬、そして翌日、偶然の再会。そのすべてのプロセスが、人間の体温を循環させていた。
誰かが誰かの生活に土足で踏み込み、そこに怒りや笑いや、時には恋心が生まれる。上司はそれを「お前、機嫌がいいな」と冷やかし、一杯の酒を酌み交わす。その「余白」こそが、小説の命だったはずだ。
今の『野いちご』をはじめとする投稿サイトに並ぶのは、そんな摩擦を徹底的に排除した「無菌の物語」だ。
トラブルが起きればすぐにセクハラと騒がれ、警察を呼ばれ、コンプライアンスという名の防波堤に阻まれて、物語の主人公たちは一歩も動けなくなる。
「コロナが決定打だったな」
秋生は冷笑する。
誰もがマスクをし、他者との距離を測り、自分の領域に誰一人入れない。あのパンデミックは、物理的な接触を断つだけでなく、僕たちの心の中に「関わったら終わり」という新しい道徳を植え付けた。
2018年以前の小説には、まだ匂いがあった。汗の匂い、泥の匂い、そして誰かと恋に落ちるかもしれないという、あの不確定な未来への期待があった。しかし、コロナ後の物語は、ただひたすらに「安全で、正しく、誰にも迷惑をかけない」ことだけを目的としている。
「小説家が書けないんじゃない。社会が、小説に必要な『生身の衝突』を許さなくなったんだ」
君の苛立ちは、僕にも痛いほどわかる。
今の会社で「昨日、電車で吐かれた女性と会えてさ」なんて言おうものなら、次の瞬間には人事の部屋に呼び出されるだろう。そこにあるのは、お前の肩を叩いてくれる上司ではなく、お前を「危険分子」として排除するためのマニュアルだ。
* **かつての日常:** 肩を叩く、一杯飲む、機嫌を伺う。そこには「他者の介入」が許されていた。
* **今の日常:** 通報、セクハラ認定、無視、隔離。そこには「他者の排除」しかない。
秋生は深く息を吐く。
だからこそ、僕は書かなければならない。この無菌室のような世界で、あえて「汚物」を抱きしめる男の物語を。
もし今の小説家たちが、安全な場所から綺麗な言葉ばかりを並べるなら、僕はその逆を行く。
「いいか。2018年以前が黄金時代だったなら、今は暗黒時代だ。でも、暗闇だからこそ見えるものがある」
今の社会が「変態だ」「セクハラだ」「気持ち悪い」と叫んで消し去ろうとする、その吐瀉物の匂いと、偶然の再会。僕はそれを、あえて物語として結晶させる。
読者が「こんなのありえない」と嘲笑おうが、「社会的に不適切だ」と非難しようが構わない。
「物語は、誰かの許可を得て書くものじゃない。僕たちが生きているこの、ちぐはぐで、残酷で、それでも捨てがたい『熱』を記録するためにあるんだ」
秋生は、汚れたままの手で、再び執筆の画面に向かう。
物語が書けなくなったと言われるこの時代にこそ、警察を呼ばれ、社会的に抹殺されてもなお、一人の人間を想い続ける……そんな「不可能な愛」を描き出すことこそが、小説家の、そして人間としての最後の戦いなのだ。
さあ、続きを語ろう。
明日、総武線快速で、あの彼女と再会した時、僕たちはどのような「エラー」をこの社会に突きつけることができるのか。
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